読書・速読術・・・2010/07/29 23:08

速読術をマスターして、沢山の本が読みたい???

速読術は、英語でspeed reading 、文章を早く読むための技術。
職業柄、膨大な資料を読まなくてはならないかたにとっては、必要な技術だろうし、
限られた時間で、資料を読み要約するには、速読で臨まなくてはならないだろう。

あちらこちらに興味があり、あれもこれも読みたい・・・。
でも、時間が足りない・・・。
じゃあ、速読術を身につけて、沢山の本を読めばいいじゃないかと思われるかもしれないが、どうも速読で本を読んで(?)いるのを見ていると、あれは読書ではないんじゃないかと思えて、いただけないのです。

速読は、集中力を高め脳を活性化すると言われるが、どうもあの読み方見方は、著者に対して失礼じゃないかなと思ってしますのは、
私だけでしょうか。

普通の読書は、声には出さなくても自分のなかで、文字を音声化しているようです。
また、漢字はその画数が目に入った時に、意味がイメージできるものです。
速読術は、音声化せずページ全体を目で捕らえて瞬時に、その内容を脳に伝達するトレーニングを積み、本一冊の内容を把握することだそうです。

私は、その本を書かれた時の作者の気持ちを考えながらページをめくり、
また戻り、一字一句読んで行きたいと思ってしまいます。
限られた時間の中で、出来る限り欲張ってみます。

八月の休みは、日中は暑くて庭には出られないので、買い込んである本を
ガーデンに持参して、何冊読めるか・・・。
でも、もしかしたら・・、ほかの事に気が散ってしまうかもしれない。
それもしかたがないかな。

源氏物語現代医学で診断・・2010/07/28 23:07

先週の日経新聞文化面で、「源氏物語の主な登場人物の症状」と書かれた
リストが興味をひきました。
登場人物の症状
「源氏物語現代医学で診断◇心身症や糖尿病・・原文描写から登場人物のカルテ◇のタイトルでお医者様の鹿島友義氏の話でした。 

著者は、10年前の63歳の頃、時間に余裕が出来たので、大学の公開講座で「源氏物語を読む」を受講したのがこの物語を読み始めたきっかけだそうです。

「正直にいうと、源氏物語は心の底から面白いとは最後まで思えなかった。」そうですが、せっかく読んだのだから、医師会の会報に何か書けないかと、医学的見地から登場人物の病気に焦点を絞って考察を始めたのだとか。
そこで書上げた本が「医者が診つめた『源氏物語』」(燦葉出版社)

主な登場人物の症状については・・・。

桐壺の更衣・・・ストレスによる心身症
光源氏の生母桐壺の更衣は、周囲のねたみいじめに「はかなき心地にわずらひて」心労で、光源氏が3歳の時にこの世を去ってしまう。これを、現代の病名ではストレスによる心身症と診察。

光源氏・・瘧病(わらわやみ)=マラリア?
「若紫」の帖で、光源氏18歳の時に熱病を患い加持祈祷の為に北山へ・・。
この熱病がマラリア???平安の時代に日本でマラリアが???
瘧病てどんな病気なんでしょうかね。

柏木・・反応性うつ状態
光源氏に降嫁していた女三宮への募る思いに柏木は沈み、ついには寝所に忍び一夜を過ごしてしまい、その後犯した過ちに苦しみ病に臥せがちになり、ついには寂しく病死してしまう。うつの原因がはっきりしている場合を、反応性うつ病と呼び、几帳面で生真面目な性格な柏木の病名は、反応性うつ病と診断。

葵の上・・糖尿病前状態
著者は、光源氏の正妻葵の上の出産について、物語では六条の御息所の生霊による難産とあるが、これは紫式部が仕えていた中宮彰子の出産が難産であったは、糖尿病前の状態で胎児が通常より大きく育っていたためではかと推測して、葵の上の診断は、糖尿病前状態。
これについては、藤原道長が「我が世」と謳歌していたころの貴族社会では、
糖尿病が疑われる患者が多数いたことは納得がいく診断だといえる。

大君・・神経性食欲不振症
宇治十帖に登場する光源氏の異母弟宮の娘大君に恋するのは、光源氏の息子で、実は女三宮と柏木との間に生まれた薫の君。宇治の山荘に暮らす大君は、厭世観に生きる姫君。儚く世を去って行く大君の診断は神経性食欲不振症。
医者が診つめた源氏物語
このように登場人物を現代医学で診察した「医者が診つめた『源氏物語』」は、
面白い内容だとおもい、「源氏物語」は、色々な専門分野の方がそれぞれの見地から解釈出来る古典作品だと、あらためた感心させられました。

著者は、敬謙なキリスト教徒のようで、「光源氏に愛された女性は総じて不幸になっていく。」と記し、この主人公は受け入れがたかったようです。

さて、これから、このリストにない登場人物のカルテを読もうか読むまいか・・・。






「武士の家計簿」・・貨幣価値と収入・・2010/03/02 22:42

時代劇を見ていると、江戸時代の貨幣価値はどれ位?いったい武士の家計は?と思うことが多々ありあます。
今回「武士の家計簿」を読んで、「そんな仕組みだったんだ・・・。」と改めて、この時代の家政を知りました。著者磯田道史氏は、大学の授業用テキストにと、この本をまとめられたと書かれていましたので、わりかし簡単に読める新書です。(数字に弱い私でも・・。)

今回は江戸時代の貨幣価値と武士の収入について・・・

江戸時代は、農業生産高に応じた年貢米を賦課する石高制を基礎とする社会で、武士は建前上は米で収入を得ていました。
「100石取り」とは玄米が100石収穫出来る土地を与えられたことを意味するが、実際は、本人が直接そこから年貢を徴収するのではなく、米は藩の米蔵へ一度収められ、年2回に分けて藩から藩士に支給された。
その時の支給高は、「武士の家計簿」によると、知行高の32.1%程度だった様で、加賀藩の御算用者(会計係り)の猪山家は、70石の知行を与えられて、実質収入は22.5石(玄米22石+銀34.3匁)と書かれている。

この時代は、米の収穫量を経済基盤とする体制ながらも、支配階級である武士は非生産階級であるから商品貨幣経済にも依存せざるを得ないので、扶持米を時価売却して貨幣を家計に算入していた。つまり家政の状態は、米で収入を得て支出には貨幣(銭)を必要とするので、米相場に左右された訳である。

通貨は、江戸を中心とする東日本は金本位で金貨を、大坂を中心とする西日本は銀本位で銀貨を、取引の決済手段として使用していた。全国共通で一般的に流通する貨幣は、最小単位の銭○文ということになるので、米や金貨銀貨を銭に兌換する必要が生じる。加賀藩猪山家は銀本位経済圏内にあるが、江戸詰めになると金本位経済圏での活動となるために、そこにまた両替行為が生じるのである。
現代において海外に行く時、両替行為を行うが、何処で幾らの兌換比率で両替するかによって手元金額が違ってくるのは承知している。
この頃は、現地にてクレジットカードを利用して、現地通貨をキャッシングすることが効率が良いとされている。これも、月の何日にキャッシングするかで、借り入れ日数の短縮が可能になったりする。
話しが横道にそれたが、この様な両替行為によっても、武士社会は貨幣経済に大きく依存せざるを得ず、この時代の基盤である武士支配の幕藩体制の解体へと進んで行く結果となった。

さて、現代に換算すると・・・、
1石=150キロなので米価で換算するか、それとも、当時の賃金水準を考慮して江戸時代の貨幣価値をはじくかの問題が生じる。

「武士の家計簿」では、猪山家の総年収は、米換算で51.388石(信之22.5石直之28.888石)約7.7トンとなるので、現在米価で計算すると200万~250万円程度とあまりにも低くなってしまうとある。(1石=150Kg 現在60Kg=16,000円程度)
そこで、著者は、江戸後期水野忠邦の天保の改革後、天保14年(1843)頃の金銭価値を、当時の賃金価値から算出して、金1両=銀75匁=30万円・銀1匁=4000円として、猪山家の年収を1230万円(信之530万円直之700万円)と推測している。
要職にあると「拝領金(ボーナス)」が盆と暮に定期支給されるそうだが、それも含めた算出と記載されている。

そして支出は、武士の体面維持の為に行わなくてはならない年中行事と儀礼に始まり、江戸詰めとなると、国許と江戸の二重生活となり嵩むことになる。
著者が入手した古文書によって、猪山家は、天保13年には収入の2倍の借金があったことがわかった。それをどの様に返済し、幕末維新の時代をどの様に乗り越えたかを詳細に記載してあったことが、「武士の家計簿」を生みだし、その家族の物語が映画化される事となったのである。

新書その他3冊・・2010/02/10 22:14

新書3冊
この頃は、書店へ足を運んで読みたい本を購入する事が少なくなった。
新聞やテレビなどの書評や、読んでいる本の参考文献などなどから読みたいと思ったら、アマゾンで注文してネットバンクで振り込むと、本が手元に届くので、とっても重宝している。
さらに、「この本を購入した方はこんな本を・・・」の誘い文句で、カイモノカゴに入れてしまったり・・。
送料無料サービス期間中などは、1000円未満の雑誌まで注文。
母などは、「この箱がよく届くけど中身は何・・?」と言います。

でも先日は、「武士の家計簿」を買いに書店へ・・・。
久し振りに新書コーナーの棚を眺めて、新書の種類の増えているのに驚きました。
岩波新書などは老舗中の老舗ですね。
目的の「武士に家計簿」は新潮文庫でした。

目的の本を手にしながら、他の新書を眺めてその他に3冊の新書の内容に興味が湧いたので買ってしまいました。

① 「江戸城を歩く」 黒田 涼著 祥伝社新書
朝日マリオン・コムで超人気のブログ「江戸城を歩こう」に加筆した江戸城の史跡を散策するガイドブックです。
12コースが古地図と現在の地図を比較して写真で紹介されています。
普段知らずに歩いている所が、こんな場所だったのだと知る楽しみがあります。
江戸の町の古地図を眺めるのも好きです。
池波正太郎の「江戸古地図散歩」(平凡社)と併せて楽しみたいと思います。

②「日本の合戦を地図から読む方法」 中村達彦著 KAWADE夢新書
日本の歴史における合戦を、兵力・陣形・地形・天候などから分析して図解解説した内容です。 
前九年の役から西南戦争までの31の戦が解説されています。
小説の中でも図解解説さている時もありますが、こんな形でまとまめられている本も便利です。

③「高校生が感動した《論語》」 佐久協(やすし)著  祥伝社新書 
この本は「論語」翻訳書です。
実は、著者の名前が飛び込んで来て手に取った本です。
佐久協氏は、慶応高校で35年間教鞭をとられ、生徒の間ではとっても人気のある先生でした。佐久氏とは面識があり、とっも面白いユニークな御仁なので、生徒に人気があった事がうなずけます。
その佐久氏が、「肩の凝らない「論語」の翻訳書で、時間の無い方は翻訳部分だけをお読みいただきたい。それだけでも「論語」の精髄は十分に理解できるはずである。」と前書きに書かれているので、ページをめくってみようかなと思いまた。
「論語」孔子の言葉が佐久氏の解釈で、今でも生きた言葉として受け取る事ができるでしょう。
決して聖人君子ではない(ゴメンナサイ)あの佐久氏の生き方なら・・。

以上の3冊を本棚に並べて、気が向いたときに手にとってページをめくります。
こんな出合いは、書店へ足を運ばなくて・・・。

「武士の家計簿」を読む・・2010/02/06 23:50

「武士の家計簿・・加賀藩御算用者の幕末維新・・」著者磯田道史(新潮新書)を読みました。
数年前にNHHの番組で採り上げた時に、触りだけを見ていて興味を持っていたのですが、先日、堺雅人・仲間由紀恵主演で映画化の記事を読んで、すぐにこの本を買いに行きました。 

この本は、加賀藩の御算用者猪山直之なる武士が残した家計の古文書をもとに書かれた、江戸時代末期から明治期の、猪山家の経済状況とそこから知れる当時の武士の生活が書かれた興味深い内容です。

まずこの本を手にしてページを開くと、著者がこの古文書を入手した時の驚きと喜びが「はしがき」の文章から想像できます。神田神保町の地下鉄の階段を駆け上がり、目的の古書店に急ぐ著者の姿が浮かんでくるようです。
著者は手に入れた古文章を「解剖」すると書いていますが、解剖医の如く1枚1枚丁寧に扱い解読して、そこから江戸時代の武士の姿を解読してくれたのです。

この古文書は1842(天保13)年~1879(明治12)までの加賀藩御算用者猪山家の記録で、年収の二倍の借金をどの様な「不退転の決意」で処理したかを詳細に記録していたのです。
映画では、この記録を残した直之を堺雅人さんが演じ、その妻を仲間由紀絵さんが演じて、家族一丸となって借金を返済して家を守り存続させて行く家族の姿が見られるのでしょう。

「身分利益」=「身分収入」-「身分費用」
「武士身分として格式を保つために支出を強いられる費用」=「身分費用」
「その身分であることにより得られる収入や利益」=「身分利益」
江戸時代の武士は、体面を保つ為に「身分費用」のなかで「祝儀交際費の支出」が大きく占め、このために借財が嵩み、一方で、収入は米価変動と貨幣経済の発展で減収、この狭間で家計は困窮状態となったのです。
娘の祝い膳は絵に描いた鯛ですませ、嫡子の祝い膳は親類縁者大勢に尾頭付きの鯛を振舞う。
当時の武士の生活が目に見えて興味の尽きない内容です。
この続きはまた書きたいと思います。

「源氏物語」1000年経った今でも・・2009/11/21 22:53

まろ、ん?
「源氏物語」が書かれたのは1000年前・・・。
1000年前に紫式部が、平安王朝を舞台にして高貴な男君を主人公にして、
その男君を取巻く400人を超える人物を登場させた長編小説を書き上げたことは、
驚くことなのだと思っています。
先日、「瀬戸内寂聴が語る 源氏物語の男君たち」を視聴してあらためて凄いことだったのだと実感しました。

「源氏物語」の現代語訳は、高校生の時に谷崎源氏を斜め読みした覚えがあります。
学校の図書室に美しい薄ピンクの装丁の円地源氏が並んでいたのも印象に残っています。
「どの現代語訳が・・・」なんて言えないけど、「瀬戸内寂聴が語る 源氏物語の男君たち」を視聴していて瀬戸内源氏が少しだけ想像出来た様な気がします。
瀬戸内寂聴曰く、「紫式部は、この小説で何が言いたかったか・・。それは、女人成仏、男はだめよ・・。」だそうです。
時間が余ったら、現代語訳の源氏を読み比べするのも面白いかなと思っていますが、
今は・・・・・、そして、今後、そんな時間ができるかな・・・。

時間のない忙しい方への「源氏物語」の入門(?)お勧め書籍は、
「大掴源氏物語(おおづかみげんじものがたり)」小泉吉宏著 幻冬舎

1帖8コマ漫画で全54帖を1冊で読めて、描かれている衣装なども資料調査の上で
描かれているので、「構想6年制作3年」と帯にありますが、源氏物語を楽しむには
お勧めです。
そして「まろ(栗)の君」がかわいいですよ。

「源氏物語」は1000年経った今でも、古くならない物語なのですね。
いつの時代も「男君と女君」の関係は・・・・・。

「わが青春の沖田総司」-3・・2009/10/16 00:12

島田順司著「わが青春の沖田総司」のつづきです。
http://kazahana.asablo.jp/blog/2009/10/03/4613341

「新選組血風録」の沖田役に抜擢された時、島田順司さんは26歳。
そして、「燃えよ剣」の沖田役を演じた時は、30歳でした。
その後、舞台で結束信二氏作・演出で沖田を演じたそうですが、残念ながら、私はこの公演は見ていないのですが・・・。

彼は、私生活でも「燃えよ剣」の撮影前に長男が誕生しており、役者としてイメージが固定する事を嫌ったのか、この時は一度は沖田役を辞退したと何かで読んだことがあります。
「・・再放送があったりすると、直接ボクにその反響は伝わって来ないけど、やはりどこかでフィルムを見ててくれる人がある、それは有難いことだけど・・・・・しかし、そう喜んでばかりもいられない気がしていたんだ、もう完結してしまった世界だから、脱皮というほどではないけど、もっと、きつく自分が演じていく方向を探していかなくちゃと思っていたわけでね。」と、
沖田総司のイメージを払拭する為に喘いでいた様です。

そして、「・・大内美予子さんとの出逢いやらいろいろあるんだけど・・・」を経て、

「「俺のやりたい芝居は、こうだ!」・・・芝居をやるからには、
「ボクはこのことについて、こう思ってるんだけどどうだろう?」と役者自身が問いかけていく芝居がしたい。
ボクの演った沖田をいいな、と言ってくれた人が、僕の違う芝居を見てくれるようになって欲しなと・・
そこで沖田を芯に据えた芝居っていうのをやってみようということになって、・・・・・、
つまり、沖田総司という若者の内なる世界をどうやって描き切れるか・・・ということになったんだ。」

こうして彼は、1976年2月名古屋の小劇場で、今まで彼が演じて来た沖田総司ではなく、
「「恋」とか「死」とか、人間に課せられている一つ一つの命題を見詰めて描く・・」
「終焉そして邂逅」というタイトルの芝居を上演しました。
「わが青春の沖田総司」のなかに、この脚本が載っています。
そしてこの脚本の作者が大内美予子さんなのです。彼女については後日に譲りたいと思います。

「終焉そして邂逅」は、「一人の若者が生き、そして死んだ。」という語りで始まり、「誰が、語りかけようと、すでに完結した君の人生はどうかえることもできない・・だが、ボクは、君に語りかけることを、決して無意味だとは思っていない・・それが一人の人間との邂逅である以上。」とあります。
そして最期に、エピローグとして島田順司さん自身の言葉で語っています。

沖田総司は、戦の中で死んだんだ。彼は彼の正義のために人を殺しただろうけど、しかしそれで彼自身傷付かなかったとは決して思えない・・・これから(戦争によって)そういう若者を作り出しちゃいけないんだ。 
彼の持っている矛盾に魅かれる・・それは分からないことじゃないけども、沖田が、どうして矛盾を持って生きなければならなかったか、それを考えてほしいんだ、人間本来のやさしさ、しあわせ、そういうものを追求したがる青春ってものの姿の裏側に、一体何のために人斬りというもう一つの姿をおしついけなければならなかったか。ね。それが戦いってものなんだよ。
戦争ってものを見た・・そして脳裏にやきつけた最後の年代の人間として・・若者たちにとっては、
あるいは空しい言葉かも知れないけど、やっぱりどんな形でもいいから伝えていかなくちゃいけない。ボクの演じた沖田の中に、もしも・・もしもだよ、人の心にうったえるものがあったら、それは、戦いと、死とを背負った人間の哀しみ、それがあるからなんだと思う。
生きて行くことは、やっぱり、一時期、一時期、生命の有効性を燃焼させて行くほかは無いって思う・・俳優として明日の自分のために、何かを作り出して行く努力を続けて行こうと思ってるし・・。

「わが青春の沖田総司」が出版されたのは、1977年、島田さんが39歳の時です。
島田さんは、7歳の時に広島県で終戦を迎えたと書いています。
多感な少年・青年時代を過ごした1950年代は、日本は朝鮮戦争による戦争特需で戦後の復興を遂げ、演劇活動を開始した1960年代は、世界は米ソの冷戦の時代となり、1962年のキューバ危機、1970年の泥沼化して行くベトナム戦争の時代でした。
当時高度成長期の日本において、反戦運動の反面で戦争の悲惨さが薄れて行く出来事も沢山ありました。ベトナムで戦死した米兵の遺体を清める高額なアルバイトが話題になった事を覚えています。
こんな時代に、役者として「役者自身が問いかける芝居」を模索していた彼が、友人のルポライター児玉隆也さんの死や大内美予子さんとの出逢いで、「戦争によって苦しむ若者を作り出してはいけない。」と、沖田総司の姿を通して訴えたのです。

島田順司さんにとって、総司との邂逅(出逢い)は「わが青春の沖田総司」そのものだったのではないでしょうか。はじめは、ファイルムの前で演じる事に戸惑い、そして役者としてイメージの固定への戸惑い、そして、総司を演じきる事により自分の思いを表現する・・。
そしてその思いを、文章にしたのがこの本だったのかもしれません。


そして、71歳になられた今、島田順司さんが、栗塚旭さん・左右田一平さんと再会して何を語るのか・・・・・。

「わが青春の沖田総司」-22009/10/03 20:19

島田順司著「わが青春の沖田総司」のつづきです。
http://kazahana.asablo.jp/blog/2009/09/29/

島田順司さん、「新選組血風録」の沖田役に抜擢されるまでは、
「・・芝居へ出たって、千円以上はもらえない、旅興業で一日・・800円か・・せいぜいそんなものだった。芝居の無い夜、徹夜でガリ版切るんだけど、そんなの高が知れてるし・・。」そんな舞台中心の劇団員が、沖田役に決まっても、
「新劇育ち・・。・・フィルムに自分が写るということに、何のリアリティーも感じなかった・・」新劇育ちの彼は、フィルムの仕事(映画)でご飯が食べて行けるとは考えられなかったと書いています。

「同じ劇団の左右田さんもいくというから、ま、一緒についていけば何とかなると思って、京の都へ出かけることにした。」と、まるで沖田が、近藤さんや土方さんについて京の都へ出かけたのと同じような気持ちが綴られている様な・・。
「子供の頃のチャンバラゴッコが実際の仕事だなんて、ちゃんちゃらおかしいというか、働いているなんてリアリティーは、まったくなかった。」
「それでも、少ないながら、ちゃんとお金はいただけるいし・・、・・当時の僕にとって決して少なくなかった。」
京都の東映の独身寮で左右田さんと寝起きを共にしながら撮影通いをし、初めてのフイルムの仕事、それも時代劇という仕事に戸惑いながら、
「・・・はぁー、映画というものは、こういうふうにして作られていくのか、なるほど・・・と只関心ばかりしていた。」
「・・・自分の芝居をどうするかってことを考える前に、まず珍しいものが一杯あって、なおかつ食べることの心配がないということは、すごくたのしかった。あまり欲もなかったし、・・・気楽なものだった。」
どこか島田さん演じる沖田総司の姿と重なりませんか。

でもそんな島田さんも始めは、
「時代劇というものをやったことがないから、カツラの付け方もわからないし、カオもどうしたらいいのかわからない、殺陣も出来ない、雪駄も・・うまく歩けるわけがない。
着物を着ても馴れていないから、何となく落ち着かない・・落ち着かないとやっていることが単純になる・・自分の殻にとじ籠もる・・食欲がなくなる・・またまたやせる・・。
一番最初は、とにかくひどかった。左右田さんがいたから何かといろいろ心丈夫だったのは事実だ。・・・そうでなければ、もっともっと、しょぼんとした沖田になっていたかもしれない。」
「・・・アフレコ・・口を合わせるなんてどうしていいのかわからない・・・。目線というのがこれまたわからない。」
初めてのカメラに向かっての演技にだんだん気が重くなって来る時期があったとあります。

「菊一文字」については、
「比較的早い時期に撮った写真だけど・・・後から見ても、あまりむだなところに気を使わず、のびのびとやってるんだ、・・・・ボクはあの写真が気に入っている。
後で自分で見ても、そういうところの芝居はすごくいい・・動いているところは。それが、座って菊一文字をじっと見ながらしゃべるってのは、とてもやりにくい・・・。」
「風去りぬ」については、
「これは僕の芝居だ!って、ものすごく張切ったわけだ、・・・・・話だって哀しいし。
ただ待っている、それだけの芝居なのに、よく、あれだけの話が成立したものだあなと、結束さんの台本に感心したり・・・」

「菊一文字」の時は静の演技が苦手だと思っていた島田さんも、「風去りぬ」ではただ静かに「その時を待つ」演技を見事に演じています。どちらも「血風録」全編のなかで一度見たら忘れられない作品です。

何度か沖田を演じた彼は、
「「血風録」「燃えよ剣」の沖田総司は、やっぱり原作のイメージを忠実に再現しようと、一所懸命つくってるところがある・・・それも役者として大事だと思うけど・・「俺は用心棒」は、割と自分の生地みたいなところで楽にやれたような気がする。・・この沖田(用心棒の)の方が、はるかにリラックスして演じてる・・どっちがいいとは、一概に言えないと思うが。」
そして、32年前の著書には
「・・・我々の仕事って、「昔、よかった」と言われたら、ぞっとするもんね、何を演っても、沖田のイメージで触わられているみたいで、どうも落ち着かないものなんだ。「沖田総司」が、まあ、いろいろな意味で評価されたことを、忘れたいと思ったこともあるね、正直言ってネ。」とあります。

司馬遼太郎作品結束信二脚本で映像化された「新選組血風録」に出会って、
歴史小説は、歴史的事実と創作としての物語が混在するものであることは誰でも理解しながらも、結束信二の脚本を通しての映像化が、見る者には、それまで無名に近かった栗塚旭や島田順司たちの演じた土方歳三や沖田総司が、あたかも幕末の時代から生き返ったかの錯覚を与え、それは、演じた彼らのその後の人生にも少なからずも影響を与えたことは間違えがない事実のようです。

「わが青春の沖田総司」-12009/09/29 22:22

幻の本・・
下記 2年前のお話・・

島田順司著書 「わが青春の沖田総司」
昭和52年4月 新人物往来社出版 定価980円
帯には・・・
島田順司の沖田総司恋歌
沖田総司への恋歌と島田順司の青春が美しい軌跡を描いて飛翔していく。
沖田総司の青春と愛を語る待望の書

実はこの本の存在は以前から知っていたのですが、数十年振りに島田順司演じる沖田総司に出会ってしまったら、島田さんの沖田への想いを直接読みたくなり、どうしても手元に欲しくなってしまいました。でも、すでに廃版でなかなか入手できません。
復刊ドットコムに投票しましたが、再び発刊される日はいつになるやら・・・。
そこで、アマゾンマーケットプレスへリクエストする事にしました。

状態が良好な「わが青春の沖田総司」を探しています、5,000円内で。
しかし、待てど暮らせどメールは届かない日々が続き、ある日、「ご希望に添える本が見つかりません。金額の上限を引き上げますか?」と聞いて来ました。
迷わず、出版当時は980円の本に、10,000円の値を付けてしまいました。

それでも連絡がありませんでした。もしかしたら、状態が良好でない本なら出会えるのかもしれないとは思いましたが、それは譲れない一線で出来るだけ綺麗な本が欲しかったのです。
数ヶ月後、メールをチェックしていたら飛び込んで来ました。
ついに手に入れる事が出来たのです。
実はメールを受信した日は私の誕生日でした。プレゼントを受け取った様に嬉しくて・・・。
誕生日に、幻の本(大袈裟じゃなくて、その筋では・・)が手に入るなんて・・・。

数日で本が届きました。新刊ではないので紙は多少黄ばんでいましたが、想像していた以上に状態の良い本でした。頁を丁寧にめくりながら、今度は読むのが惜しくなったりして・・。
でも、沖田総司を再び生き返らせた役者島田順司の総司との出会いと想い(重い?)を知る事ができたのです。

後日また書きます・・・つづく

朴の花と沖田総司・・2009/08/01 00:28

朴の花を見たことがありますか?
朴の木は15mを越える高木で、高い木の上に甘い強い香りのする白色の花を咲かせるそうです。あまり高い所で花を開くので、香りはしてもなかなか見ることが出来ないとか。朴の花の写真を探してみると、モクレンの花に似た大きな花弁を持つ黄白の花でした。
先日こんな俳句に出合いました。
一天に一花を掲げ朴の花 宇多喜代子
朴の花は夏の季語ですが、朴の木が強い香りの花を夏の高い空に咲かせている様子が感じられる句だと思いました。

なぜ朴の花・・・・・
それはこの俳句に出合って、以前読んだ本の一部を思い出したからなのです。
森満喜子著「沖田総司・おもかげ抄<新装版>」
著者は1924(大正13)年生まれのお医者さまで、「沖田総司という幕末の一青年の面影を追って彼の溜息の一つも見逃すまいとの思いで綴った」初稿(昭和40年)に4回目の筆を加えたのがこの新装版で1999年の発行本です。
初稿を読んだ司馬遼太郎氏が「あまり情がこもり過ぎている。もっとエッセイ風に」と指摘をしたほど、彼女の総司への思いが深く「情に流される事なく筆を進める事は至難の業で、ともすれば総司への思いに奔ってゆく筆の流れとの戦いであった。」と「あとがき」にあります。
逆算すると初稿の頃の著者は40歳前後ですが、決して多くはない資料や話を集めてやさしく丁寧に深い思いを込めて青年総司の面影を追った本です。

前置きが長くなりましたが、この本の中に「朴の花・・」が出て来たのです。
著者は沖田総司を花にたとえると「朴の花」ではないかと思うと記述しているのです。
それは、昭和43年6月の朝日新聞「天声人語」を引用して、朴の木の大きさ高い所で初夏の太陽に向かって咲く大きな花、そしてその花の散り行く姿に沖田総司の姿を重ねられた様です。

「いのち短しといえば朴の花がそれだ。葉の茂った上にやや黄色を帯びた大きな花を咲かす。花は枝先でことごとく上を向いて初夏の太陽と向かい合う。この木の若葉は美しい上に香りがよいので朴葉餅を包んだりするが、丈の高い木は長身の青年を見るような気がする。・・・・・ある日、朴の花は突如として散る。無常そのものの散り方だ。・・・あっという間に散って残るは空寂の感である。・・さては風とともに昇天したのであろうか・・・」
(「天声人語」より)

この本が出た頃には、昔総司が歩いた小野路(現在の町田)の街道には朴の木があって初夏には花咲かせているとある。
2009年の夏は、まだそこに朴の花は咲いているのでしょうか。
この「おもかげ抄」を読んで沖田総司を「朴の花」にたとえた記述が強く印象に残っていて、朴の花の咲いている姿を見てみたいし、その散り行く様も見てみたいと思い続けています。