「黒龍の柩」・・・2010/12/07 23:00

夏休中に読破宣言していた、北方謙三著「黒龍の柩」上下はその後、読み終ったの?
何方にも尋ねられないけど、お答えすます。
8月中には読み終らなかったけど、すでに9月初旬には読む終えております。
読み終えたのですが、何だか読後感想を報告するチャンスを逃しておりました。
理由は定かではないのですが・・・・・。
もしも、この本をこれから読むつもりの方で物語の結末を知りたくない方は、この先は読まない方が良いと思います。。。

友達と新選組の土方歳三と山南敬助の関係について話していた時に、
彼女が、二人の面白い関係が書かれた小説として「黒龍の柩」を進めてくれた。
その時は物語全体の話題より、この二人の関係をこんな風に解釈するのも「ありでしょ。。」との事だった。
北方謙三の歴史小説は初めてなのと、ハードボイルド小説家が描く土方像で私の中で出来上がっている新選組や土方のイメージを壊される事はイヤだったので、ちょっと躊躇しながらこの本を手にした。
北方謙三は「ハードボイルド小説の主人公は、一途な男でなくてはならない」と語っていたのを聞いて、一途な男=土方歳三は間違えないのだが・・。

この本の上巻の帯にある著者の言葉は・・・、
「潰えていく男の夢を、私は描きたかった。土方歳三が、主人公になっている。新選組を扱った小説は、多数ある。あえて新選組を素材の中心にも持ってきたのは、そのイメージもまた、どこかで変えたいという、小説家としての欲望があった。」

著者の小説手法なのか、登場人物の会話で進むストーリー展開。
新選組のあり方と土方の男としての夢に対しての、土方と山南の会話。
どちらの言葉か,順を追いながら読まなくてはならない。
病魔に犯され余命いくばくと悟った山南が、土方の男の夢の為に自らの命をかけて、
幕閣勝海舟の不戦を貫き列強から国を守る事の意を探りだし、さらに、新選組の分裂危機に、土方歳三が男の夢を見ることを願って、脱走切腹の道を選択する。
山南敬助の突然の脱走と局中法度による切腹の事実を、こんな形で結びつけたストーリーに、友人が進めた理由がわかった様な気がした。この小説に描かれた強い山南敬助は、なかなかいい。
著者は、山南が切腹の行為で己の腹に刃を刺す事によって病巣を自ら掻き出す強い男に描き、そして、土方の切腹を命じる冷徹な姿に、混乱の時代に己の夢を貫く為に生きるハードボイルドの主人公を描いた。

さて、この小説の登場人物は、新選組のメンバーの他は、幕臣勝海舟、小栗上野介忠順、坂本龍馬、そして徳川慶喜である。
ピースメーカーの坂本龍馬は、薩長と幕府との内戦回避の為には、戦わずして政権返上した徳川慶喜を隠密裏に蝦夷地へ渡らせて、そこに新国家を建設する構想の実現に、徳川家の存続を想う幕臣勝海舟を動かす。
著者は、蝦夷地での新国家構想実現に向けて、京都に於いて土方歳三と勝を出逢わせ、彼に新選組の枠を超えた男の夢を抱かせる。土方と勝の出逢いは、意標を突く組み合わせで驚いた。史実的に勝は、新選組土方歳三を好まなかっただろうから。
また、土方と龍馬の密会の場面もある。そして、「京に入るな。武力倒幕派の暗殺は半端ではない。」と忠告している。この小説では、龍馬暗殺は薩摩西郷の仕業としているのも面白い。

下巻の帯の著者の言葉に・・・
「小説である。正史をなぞるわけではない。権力移譲の不可解さから、想像力が働き、ひとつの仮説の中で、人の物語が立ち上がったのが、この作品である。」

仮説「徳川慶喜を蝦夷地へ・・」の実現の為に、鳥羽伏見の戦いの後、この小説の土方歳三は、北関東・会津・奥州と転戦しながら勝そして小栗上野介のもとを飛廻り、山中に潜伏する慶喜を警護し、自らは蝦夷へ渡る。スーパーマンの様な活躍振りが描かれていて、さすがにハードな主人公である。
このまま夢が実現して慶喜が蝦夷へ渡ってしまうのかと読み進むと、小栗上野介の惨殺そして勝と西郷の駆け引きによって夢が潰えて行き、物語は箱舘での終結へと。。。
そしてなんと、最終章ではこの物語の初めから登場していた武士の身分を捨てた料理人久兵衛が、土方歳三の影武者として一本木に死し、土方歳三は、北の大地に馬を駆けてフェードして行くのである。
蝦夷に夢を実現しようとした男たちが見た夢は、美しすぎたので潰えたと、著者は土方に語らせている。夢を抱くものにとってその夢は、いつでも美しいもであるから、実現しようと努めるのではないのか。その夢が潰えたとき、何故実現出来なかったのかと振り返る。著者は、久兵衛なる人物を最後に影武者に仕立て、結末で夢破れた土方をフェードさせるために利用している。
正史のなかの仮説物語は、夢を追う男として土方歳三を葬ることなく、消え去らせたのであろうか。








続、奇々怪々・・2010/08/26 17:15

” 「最高齢」は文久生まれ、149歳!? ” の記事に驚いていたら、
”「黒船来航6年前」誕生、三重に「163歳」・・・戸籍上生存”!!

大阪市では、戸籍にあって住民基本台帳に登録されていない120歳以上の戸籍上生存者5125人・・・すごい数字!!

本当にいくら猛暑だからといって、こんなにも幽霊の戸籍が生きているなんて信じられない事です。

文久生まれ149歳は、性別不明だそうです。
文久元年は西暦1861年てどんな年かというと、ちょうど大河ドラマ「龍馬伝」の第2部の時代で、坂本龍馬が土佐を脱藩する前年なんです。
あの埃ぽくてなんとなくセピアの画面で再現されている大坂(阪じゃないくて坂)で生まれた人が、戸籍上生存。。。

驚いて感想を書こうと思っていたら、さらにさらにその上が・・・・・・。

黒船来航6年前、西暦1847年、年号でいうと弘化4年です。
「泰平の眠りを覚ます上貴撰たった四はいで夜も寝られず」と風刺された様に、
ペリー来航によって幕末そして近代へと時代が動いて行く以前に生まれていた
ことになります。
調べてみると、「南総里見八犬伝」の著者滝沢馬琴80歳、あのさくら吹雪の遠山の金さん54歳で存命です。後の新選組近藤勇13歳、土方歳三12歳、沖田総司にいたっては1歳です。
なんだか幕末が身近に感じられません。。。

住民基本台帳の管轄は総務省で住民登録の抹消の権限は各自治体にあり、
戸籍の管轄は法務省で、除籍するには法務省に申請手続きが必要なので、
役所では手続きが後回しになったと言い訳をしています。さらに、戸籍法の改正で電算化されたので、放置しておいても置き場所に困らなかったとか・・・。
電算化は1994年以降の事で、その時に不思議に思わなかった???
放置しても置き場所に困らない??とんでも無い!!HDも税金で購入しているんでしょうが!

戸籍とは、そこに記載されている人物が日本国民であり日本国籍を有するという身分を公証するものです。「本籍地は?」と聞かれた場合に、戸籍台帳に記載された住所をさします。
戦前は、家長を中心に「家」単位で記載されていましたが、戦後民法や戸籍法の改正で、戸籍に記載されるのは夫婦子供単位となり、結婚すると親の戸籍から抜けて新しい戸籍を作ります。その時、何処の土地を本籍に定めるかは自由です。二人で新しく生活を始める住所を本籍として戸籍を作る事が出来るのです。別に夫の本籍地に新たに戸籍を作るのではなく・・。その後、引越を重ねると、住民基本台帳は移動しますが、戸籍の住所本籍地は普通はそのままですが。今回は、この戸籍のシステムの良し悪しはさておいておきます。

今回見つかった幽霊戸籍は、現代の行政の怠慢に呆れながらも、江戸時代後期幕末の頃に生まれた人が、戸籍上生存していることに、時が流れて歴史が作られていることや、命が連なっている事をもう一度考えさせられ出来事です。



オリジナル脚本「龍馬伝」・・2010/07/22 23:30

大河ドラマと言えば、N●K日曜日夜8:00~。
今年の「龍馬伝」で49作目。

大河ドラマは、原作があってそれを脚本化した作品が主流で、原作本がなく、
脚本家がオリジナルで書き下ろした作品は2割程度だそうです。
さらに、時代物が主流で一番古い時代を扱った作品は、海音寺潮五郎原作で平将門を主人公とした「風と雲と虹と」でしょうか。
大河は、歴史上の実在人物を一年間をかけて描くことが多いですが、中には架空の人物を主人公とした作品もあったり、橋田壽賀子脚本「いのち」や山崎豊子原作「山河燃ゆ」は、扱った時代が昭和で異色の作品でした。

近年、脚本家オリジナル作品で印象に残るのは、三谷幸喜脚本「新選組」でしょうか。この作品の三谷ワールドが描いた幕末そして新選組には、賛否両論がありあした。放送当時は、×××と思いましたが、今は、この作品は三谷幸喜作品として受け入れています。

今年の「龍馬伝」は、脚本家福田靖のオリジナル作品です。
話題作「HERO」「海猿」の脚本を手がけている福田靖氏のこの作品への意気込みは・・・。

「映像化されてきた龍馬は豪放磊落で、いつも同じ。最初からあの龍馬だったはずがなく、土佐で育った普通の青年がどう成長していくかを描きたい。既存のエピソードを全部ひっくり返してやろうと、けんか腰で書き始めた。世間の反発は百も承知で・・。」
「いきなり英雄だったのではなく、身分社会の差別を受け卑屈になったりしながら志を持ち、夢をかなえた時には国のシステムまで変えたいと思う。普通の若者が「龍馬」になる、そんな成長を一年かけて描きたい。」

真剣に視聴していない私が、物申すのもなんですが、世間の反発を百も承知で既存のエピソードをひっくり返して龍馬像を作り上げるのも結構ですが、出来たらあまり突飛なエピソードは、どうかと思いますが・・・。

多くの若い歴女の方々が、御贔屓の俳優演じる幕末の若者に注目しているので、あまり史実をひっくり返さない方が好ましいのではないかと。
また、大河時代劇を通して、日本の過去(歴史)に初めて接する人もいるので、
その辺を少しばかり考えて欲しいと老婆心で思うのですが。

流し視聴で感じたことは、この「龍馬伝」は、出演者は150年程前の姿格好をして演じていますが、すでに「時代劇」のカテゴリーを外れているように思えます。
うまく表現出来ませんが、近世から近代への変革の時代に普通の若者達が葛藤しつつ生き抜いて行く姿を描いたドラマ。

これからの展開は、そんな視点でこのドラマを見続けないと、少し違った史観を持ってしまうかもしれません。
龍馬が画策した「薩長連合」の本当の狙いは・・・。
龍馬が後藤象二郎に建白させた「大政奉還」とは・・・。
これからが幕末物の描き方、歴史観の難しさいところではないでしょうか。

福田本は、今後、龍馬をあまり倒幕に走らせるより、起業家坂本龍馬を楽しませて欲しいと思うのですが・・・。










龍馬の見た江戸・・・2010/03/26 21:16

龍馬の見た江戸・・太田記念美術館
原宿に長~く居て、興味がありながら、なかなか足が向かなかった浮世絵太田記念美術館へ、昨日初めて入館してみました。

今月の展示テーマが、「龍馬の見た江戸 -幕末の風景-」だったので、150年前の東京(江戸)の様子が、絵を介して見られるチャンスだと思って、この展示ポスターを見つけた時から、今回は見に行こうと決めていたからです。

身近にある美術館は、いつでも行けると思っていると・・・、結局、目的の展示が見られなくなるものです。

今回は3月2日から26日まで。
昨日は、少し忙しくて思うように時間が取れかったのでが、最終日に行けなくなる危険もあるので・・・、思い切って仕事の途中で美術館へ・・。
そんなに広い展示ではないので、急ぎ足で見て来ました。

嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船が浦和に来航した年に、龍馬は剣術の修行に江戸へ・・。
その頃の品川沖の様子や、高輪の秋を描いた風景画に描かれた江戸の海は、今は埋め立てられてしまった辺りでしょうか。
今はその様子を想像する事も出来ませんが、品川鮫洲の辺りに紅葉の名所があったと、「居眠り磐音 江戸双紙」にありましが。

歌川広重「江戸名所」は、まさにこの頃に刊行された風景画で、幕末の頃の江戸の様子を垣間見る事が出来ます。
でも、江戸名所絵ですから、長閑な江戸の町の雰囲気が感じられ、吉原の大門てこんな感じ・・なんだ。
土佐や薩摩の若者が、江戸の町をどんな思いで歩いていたのでしょうか・・。
そして、試衛館の面々は・・、伊庭の若様は・・、この絵に描かれた江戸の町を歩いていたんですね。

江戸の町にタイムスリップしてみたいですか?
去年人気があったドラマ「仁」になっちゃいますね。

幕末の世情を反映した風刺画のコーナーでは・・、
米俵の軍勢と貨幣の軍勢の戦を描いて物価高騰の様子を風刺した絵や、頼母子講の様子を描いて幕末の諸藩を揶揄した風刺画もありました。貧乏くじだけは引かない様にと・・・。
子供相撲図は、薩摩藩と会津藩の戊辰戦争を題材にしているとか・・。

今回のポスターに描かれた龍馬は、近年に発見された作品で、明治20年に上演された時の龍馬を描いた役者絵だそうです。
さすが役者絵ですね・・・。

勝・西郷の会見の地・・2009/09/11 16:24

江戸開城勝・西郷会見の地?
昨日の池上本門寺松濤園の一画に、勝海舟・西郷隆盛会見の碑がありました・・・。

薩長肥連合の東征軍の江戸城総攻撃目前に、江戸城明け渡しと徳川慶喜の江戸退去が話し合われ、江戸の町を灰に帰さずにすんだ、東征軍総参謀西郷と幕府陸軍総裁勝との会見は、慶応4年(1868)3月13日と14日両日行われ、
その場所については、13日が高輪の薩摩藩邸、14日が田町の薩摩藩蔵屋敷と記されています。

JR田町駅の改札を出ると、壁のレリーフが会見の地である事を思い出させ、国道脇には会見の碑があります。

ところが、本門寺の松濤園内にあった四阿で両者が江戸城明け渡しの会見をしたので、その場所として碑が建てられていました。
それも東京都史跡指定と・・・。(史跡リストを検索しましたが記載されていませんでした。)
本門寺は東征軍の陣営が置かれた場所とありました。

高輪・田町の会見場所で江戸城明け渡しの話し合いが行われた事は間違えのない事だと思うのですが、池上のこの庭の四阿で両者が会った史実があるとすれば、それは江戸城明け渡し後の出会いと考えた方が良いように思いますが、史跡指定を受けているので、資料的根拠があるのでしょうか。

後日の勝と西郷の交流を考慮すると、ふたり静かに池を眺め語り合ったと思いたいのですが、それは江戸開城後の西郷と勝の多忙極まる毎日では難しいかった様にも思えます。

勝は池上に近い洗足池付近が気に入って晩年、池の畔に別邸を持ちその地に眠る事を希望したそうですから、池上のこの庭も散策したかもしれませんね。

碧血碑2009/05/09 00:32

函館 碧血碑
先日訪れた碧血碑について・・・・・

「碧血碑」は一般には「へっけつひ」とふりがなが振られているが、正式には「へきけつひ」と読み、函館市の案内板の説明には、
「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年大鳥圭介や榎本武揚らの協力を得て、東京から船で運ばれたもので、
碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。・・・」とあった。

碧血とは、「義に殉じた武人の血は三年経つと碧血と化す」と云う中国の故事により、「碧」とは、「あお、みどり、あおみどり色 あおくすんで見える石碧玉 サファイア色」の意味で、節義により死んだ武人の赤い血は碧(みどり)の血となり玉(ギョク)となるとたたえているのである。

函館山の山中に建つ碧血碑への小道の入口で車を降りた時、タクシーの運転手に
「碧血碑の意味はご存知ですね。」と念を押された。

静かな小道をしばらく進むと、数段の階段を登った場所に大きな石碑が、木々に包まれて建っていた。台座部分は2m近くその上部に石組の碑が載っている。
一枚石の碑ではなく石組みの碑であることで、説明版の「東京から船で運ばれた・・」とある意味が理解できた。

石碑には、揮毫者や建立者の名前が通常は記されているが、この碑には名前がなく
碑の裏に意味深長な文字が刻まれていると読んだので碑の裏へ回って見た。

「明治辰巳実有此事 立石山上以表厥志 明治八年五月」
(明治辰巳に実に此事あり 山上に石を立て以て厥志を表す・・)
と風雪によって消されかけた文字が読めた。

明治8年は箱館戦争が終結してまだ6年足らずで、反政府の戦没者を慰霊することは
憚りがあったために、揮毫者や建立者の記載がどこにもないのは納得いくところである。
五稜郭政権の閣僚でただ一人戦死した土方歳三そして戊辰戦争の東軍戦死者800余人の慰霊の為の碑建立であり、榎本武揚は、
「碧血碑ハ、数ノ戦死者アル中ニテ、尤モ土方君ニ重キヲ置キ、・・・土方君ノ為ニ建テタ者ト云ッテモ、差支エナシ」と語っている。

さて、一本木関門で銃弾に倒れた土方歳三は何処に葬られたのか、
・ 明治12年に碧血碑の中に改葬
・ 碧血碑の後ろの大石の下
・ 碧血碑周辺の地面の下  
その他諸説があるようだが定かではないとある。
碑の台座部分の観音開きの扉の中には、それらしきものは納められていないそうだ。

しかしもし、この周辺に埋葬されその事実を榎本武揚が知っていたとすれば、この場所が選定された事に、なにかの関わりがあるのではないかとの思いに周囲を見回し、
芽吹き始めた木々の間からの陽の光が、土の中の命を呼び起こし、白いイチゲの小花や紫のエゾエンゴサクを咲かせ、静寂が心に残り、この場所をあとにした。

参考文献 好川之範著 「箱館戦争全史」

土方歳三最期の地2009/05/02 22:07

碧血碑への道
函館最後の昨日は・・・
朝市へ・・・早起きは得意な方ではないので、早朝ではなく遅い朝の時間に出かけて、名物海鮮丼を・・朝から丼ご飯を食べてしまいました。いつもは朝からこんなにご飯を食べないのに美味しく全部食べてしまい、メカブ酢も新鮮なメカブと程いい酢加減がおいしかったです。
市場では近郊農家の取れたて野菜が並んでいて、その中でホワイトアスパラを買って来ました。
あとはほたての貝柱と干しシシャモを買いました。シシャモは寒の時期に干したものでそのまま食べてもいい味がします。

さて、朝市を歩いたあと最後までとっておいた場所へ向かいました・・・・・
函館駅から歩いて5~6分の所・・「土方歳三最期の地碑」へ・・
八幡通りというかなり道幅のある通りに面して、総合福祉センターの前の綺麗に整えられた若松緑地公園の一隅に「最期の地碑」がありました。
八幡通りの中央分離帯のグリーンベルトは幅3mほどあり、この幅がもともとの道幅だったとか・・
つまり今、道路の中央が正確に土方歳三最期の地であるならば、現在の中央分離帯となっている場所が、一本木関門であり35歳の生涯を閉じた場所ということになる訳です。
道幅のわりには車の少ない割合静かな通りで、近所の女性が道路中央の緑地帯を犬と散歩していました。(決してそこは散歩コースではないのですが・・)
最期の地はお線香の香りが絶える事がないと読みましたが、私が訪れた時もお線香の香りが漂い最期の地を訪れた実感を生じさせ、私もお線香に火をつけ手を合わせてきました。

その後、「碧血碑」へ向かいました。
「碧血碑(へきけつひ)」は、榎本武揚らが明治8年に函館山の山中に五稜郭政権の戦士者を弔う為に建立したかなり大きい碑で、諸説がありますが土方の骨を埋葬したとの説もある場所です。
詳しく後日書きたいと思います・・
碑への道は、静かな山の小道で両脇には春を待っていたオニゼンマイや山野の小花が咲き山桜が花を付け木々の若芽が芽吹いていました。
そんな森の道を進むと大きな慰霊碑がひっそりと建っていました。

明治8年はまだ彼らを慰霊することは憚られたのでこの山の中が選ばれたのだろう・・、慰霊されている者慰霊した者の思いをこの静寂が、今でも見守っている様に思える場所です。
しばらくそこにたたずんでいたら、旅行者らしい女性が現れ持参したお線香に火をつけ手を合わせて去って行きました。彼女もまたある思いを持ってここを訪れたのでしょう・・

仕事の関係で急遽決まった函館の旅でしたが、土蔵や歴史的建築物が多く残る150年前の開港都市函館の姿を感じとり、期せずして土方歳三の最後の戦いと最期の地を訪ねることが出来た旅でした。