映画「さくら.さくら」・・・2011/03/06 22:40

昨日から東京で上映されている
「さくら.さくら~サムライ化学者高峰譲吉の生涯~」(銀座シネパトス)を観て来ました。

昨日お茶を飲みながら新聞をめくっていて目にとまりました。
昨年3月に金沢・高岡で先行上映され作品で、日頃お世話になる胃腸消化薬タカジアスターゼを発見した高峰譲吉博士の生涯を描いた映画。

「武士の家計簿」に続いてまたまた加賀藩出身。
加賀の学業文化の高さが感じさせます。

高峰譲吉博士の偉業
1.現在も手術で欠かせない血を止める働きをするアドレナリンの抽出。
2.消化・糖化作用のタカジアスターゼの発見。 →第一三共(株)
3.日本農業の大変革を目指す人道肥料会社の設立。 →日産化学工業(株)
4.日本におけるプラスチック生産の道筋。 →住友ベークライト(株)
5.黒部川水系の電源開発によるアルミ製造の計画。 →黒部ダムの水力発電による
                                  富山のアルミ製造産業
などなど、「ヘェ~、この会社もあの会社も、ここからスタートとしているんだ。。。」と・・
教科書で高峰譲吉の名前は記憶にありましたが、これほど多くの業績を挙げた化学者であり明治大正期に日本の発展の為に実業の世界でも尽力した人物だと初めて知りました。
譲吉の成功は、失敗を積み重ねて生み出された研究発明を忍耐強く支えてくれた
アメリカ人女性の妻であり、その義母の譲吉への期待・・動機はどうあれ・・に大いに
助けられた事も、この映画は描いている。

タカジアスターゼの発見後、米国薬品会社と製造販売権契約をする時に、「日本の販売権だけは譲れない。」と主張し、契約が成立しなかった時の譲吉の心は、日本人であり日本の為に発明を生かしたいとの強い思いからだったのだろう・・。
結局、日本での製造販売権は契約から除外することになり、それが、薬の三共の
誕生となる。

譲吉の加藤雅也さんも好演していて、2時間半近い作品で高峰譲吉博士を、
こんな日本人がいたことを知ることが出来る作品でした。

高峰博士は、日米親善の願いからワシントンDCのポトマック河畔の桜の植樹に尽力し、来年2012年が100年目になる。
さらに映画『TAKAMINE アメリカに桜を咲かせた男』が製作されていて、
この春に金沢で先行上演され、来年に全国上映が予定されている。
こちらは、化学者としての高峰譲吉より、日露戦争前夜からアメリカでの日本の地位向上に尽くし、アメリカ世論を日本側に導くために、日米間の文化交流・親善に尽力する姿を描いている映画になっているようだ。
「坂の上の雲」の時代、アメリカでどんな民間外交があったのか・・・。
来年の上映時にも観に忘れなければ行くつもりですが・・・。

北方領土・・・2011/02/02 16:15

今日も新聞記事から。。。 一面の目立った記事じゃないけど・・・・・・

31日(月)読売新聞 「北方領土解決にエリツィン氏意欲・・・書簡で裏付け」

1997年、当時のエリツィンロシア大統領が、当時の橋本龍太郎総理に「政治家の仕事は問題の解決だ」と、北方4島の帰属問題の解決に取り組む決意の書簡を送り、
「歴史的チャンスを生かす」領土交渉の解決に向かって活発は首脳外交が展開された事が明らかになった。

1日(火)読売新聞 「北方問題 『重荷下ろそう』」
新聞記事
ロシアでエリツィン氏生誕80年を記念して「エリツィン大統領書簡集」が今日2日に
公開され、その中にエリツィン大統領から領土問題の解決に向けた働きかけがあり、
それに答えた橋龍とのやりとりが収録されているという内容。

エリツィン大統領は、ソビエト連邦からロシア連邦へ体制を変えて時の初代大統領で
あり、大国ロシアを何とか生き返らせたい思いが日本への歩みよりとなったかどうかは
私は知らない。
「政治家の仕事は問題を作ることではなく解決をすることだ。」 との政治家としての
哲学を持って、ソ連邦社会主義体制を変革したのか・・・。
当時のロシア情勢については、たたただ憶測するに過ぎないが。。。
彼がどんな人物であったかは知らないが、この時が北の島を取り戻す歴史的チャンスだった事は、二人のやり取りを読むと痛感させられる。

この時期、1997年アジアから始まった金融危機による日本経済の深刻な打撃、
橋龍政権による増税緊縮財政、1998年7月参院選敗北による橋龍政権退陣。
さらに同年8月のロシア財政危機。。。。。
経済あっての外交、外交あっての経済・・・・・。
橋龍退陣後もチャンスはあったかもしれないが、歴史的チャンスの時間は戻っては来ない。。。

昨日今日、こんな記事が、、、、、、
     「北方領土開発に韓国企業を誘致」
     「北方領土の『自由貿易圏』 露、第三国誘致も 実行支配を規制事実化」
北方領土に韓国や中国企業の資本が誘致されたら、領土問題の解決はますます複雑化し不可能に近づくだろう。
この記事を見て、フット思い出した人物は、鈴木○男だった・・・・。

もう一人、「五井野正博士」と言う名前に出会った。
初めて聞く名前だ。。。。。。どうもこの人物が、エリツィン氏を動かしたのだと・・・。

五井野正博士 1950年新潟県上越市生まれ
五井野博士の日露平和条約の締結と北方四島領土問題解決の提案が日露双方に支持されたとあったので、政治・国際関係の学者??と思ったら、どうも違うようだ。
環境問題、宗教系、医学、浮世絵画家、SF小説家、音楽家・・・・・・。
どうも、エリツィン大統領の心臓病治療を極秘で行い、その後、彼が奇跡的に政治復帰した事が、エリツィン氏の信頼を得て「北方四島の提案書」が支持されたとか・・・。
この人物に興味のある方は、ご自分でお調べ下さい。。。。。。。









日本初の合弁会社NEC・・・2011/01/24 19:27

先週、NECが中国のレノボ・グループとパソコン事業の合弁会社を設立する方向で調整している事が報道された。

ついに来たか!今度は、NEC。。。か・・・・・。(感想)

中国のレノボ・グループは、日本では一般的には知名度はそんなに高くないが、2005年に米IBMのパソコン事業を買収した世界シェア上位の会社。
米IBMが中国に買われて行った時は、なんだか複雑な寂しさを感じたが、今度は、
日本電気(株)NECが、パソコンの生産と販売事業を手がける子会社を母体にして、
中国企業の過半出資(推測)の合弁会社を立ち上げるようだ。

1980年代、オフィスでの最初のパソコン導入はNECだった。
今振り返ると、当時のパソコンは高価だった。。。家電量販店ではなく、ソフト会社から
ソフトを購入するのと一緒に購入していた。見事な償却資産価格だったな・・・。
ソフト会社もマージンを採っていたんだろうな。。。
そのころのPC-98はOSがMS-DOSで、Windowsが出現してからもしばらくの間はそのまま使用していたので、ソフトの互換性に泣かされたものだった。
その後、パソコンは家電量販店や画面上の操作で購入する様になって、高性能なPCも低価格で手に入る様になった。

メーカーも、趣味とこだわりを捨てれば中国のメーカーだって、何の問題もないはずだ。
何故ならば、アップルもバイオもデルも中身は、大陸で組立てられているんだから。

数日前の日経新聞「春秋」欄で、NECが日本初の合弁会社だった事を知った。
幕末に結ばれた不平等条約の改正に明治政府は苦労した。欧米諸国の譲歩を狙って踏み切ったのが、外国資本を居留地以外でも受け入れることだった。1899年、条約改正の発効に合わせて日本初の合弁会社が誕生。現在のNECだ。


そらに、日本電気(株)NECのHPの沿革にも・・・
日本電気株式会社は、1899年7月17日、岩垂邦彦らによって、米国ウェスタン・エレクトリック社(WE社、現アルカテル・ルーセント社)との日本初の外国資本の合弁会社として設立されました

1894年(明治27)日清戦争直前に、陸奥宗光外務大臣と青木周蔵駐英大使の条約改正交渉により日英通商航海条約が調印された。
その内容は、領事裁判権及び特権撤廃、居留地撤廃、関税自主権の一部回復、
相互対等の最恵国待遇というもので、関税自主権については一部回復にとどまったが、治外法権は完全に撤廃された。
その条約の発効された1899年(明治32)に外国人の内地雑居が認められ、
外国人と事業を合弁する日本初の合弁会社としてNECが設立されたことになる。
合弁会社を設立した創業者達は、当時アメリカの進んだ通信技術をどん欲に吸収して、電話機の製造を開始し、全国に電話回線網の計画推進政策を追い風に成長した。
今回の合弁事業の報道で、始めてNECの創業を知った。

明治のこの時代は、「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている。」時代だった。そして平成の今は、?????。。。。。
政治家に国を思う心がない今、これからどんな時代をむかえようとしているのだろうか。
寒さに震える。。。。。



センター試験日本史B・・・2011/01/18 17:21

何を思ったかセンター試験の日本史Bに挑戦してみました。

日本史AとBは、高校の単位数の違いと、Aは近現代史~に特化した内容で、日本史Bは古代~近現代までの広範囲を扱っているから、一般的には日本史Bが選択されるそうですね。
新聞を開いたら、試験問題が細かい文字で一面に・・・。
もちろん、英語や数学や国語の問題には、挑戦しようなんて間違っても思いません。

何を血迷ったか、日本史の問題を読み始めてしまった。。。←今までは問題を解こうなんて思ったことはゼロです。
大学受験は30数年前。その後は、受験勉強として日本史に向き合った事はないので
興味のない時代、出来事、通史は虫食い状態。好きで興味を持って日々接している歴史関係の書籍は、極端に偏っているので、全然自信がない。試験問題を解くテクニックだって、昨今のテクじゃないし・・。試験問題独特の設問の言い回しに接して、「正」を選択するのか「誤」を選択するのか注意を要した。
でも、マークシートじゃない時代は、人名・出来事・地名などを漢字で表記しなくてならない問題もあったから、それに比べると選択問題は楽だなと思った。
組合された選択肢から誤の言葉を消したり、出題側が何を引っかけようとしているか
考えて選択すると正解の確率が高くなるから・・・。

今年の問題は、そんなに難易度は高くなかったようです。
古代から近現代、特に最後の問題では美濃部亮吉都知事の名前まで記されていたのには驚いた。ここまで歴史の問題になっちゃう???そうなんだ。。。。。
問題全体の印象は、満遍なく政治・外交・経済・文化と出題されているようだが、その中でも経済史問題が多く出題されていていた。
部分部分を深く掘り下げてなくても通史的に全体を把握していた受験生なら、かなり正解が導ける問題が多かった様に思えました。

ところで、結果的にどれぐらいで出来たかと言うと、約6割・・・でした。
平均点ぐらいかな。。。点数は非公開。。。
やっぱり、昔から苦手だった古墳時代と、その当時時間に追われて詰め込んだ記憶のある近現代史の政治経済関係の問題に引っ掛かった・・・。頭の中の近現代史は、受験勉強用に整理されていないと言うことでしょう。なんて、言い訳をしてみたり。。。
最後は集中力が切れてきたし・・・。
でも、本当に久し振りに日本史の問題を解いたので、面白かったけど、7割は正解したかったですね。試験なんて、得意なヶ所が出題されるかどうかで、結果が大きく左右されてしまうから、賭けみたいなものなんですよね。

でも、受験が終れば日本の歴史を学ぶことはない人が、大部分なんでしょう・・・。
これでいいのかな???
もっと日本の政治外交・文化の歴史の本質に興味を持って欲しいと思うし、そこから、
自分の国の行く末を考える力が生まれるのではないかと思っています。。。







夕暮れのお堀端散策・・2010/10/26 18:10

先週の国立劇場での観劇の後、お堀端を散策しました・・・。
その日は曇り空で終演が4時近かったのが手伝って、写真は秋の物寂しい
江戸城のお堀端の風景になってしまいました。
Googleマップでルートを検索すると、3.7Kmで約44分と表示されました。
デジカメの撮影データーを確認すると、約48分の散策でした。
国立劇場の前の信号を渡り、千鳥ヶ淵公園内から千鳥ヶ淵交差点をを右折して、代官町通りから竹橋、大手町までのコースを歩きました。
よくよく考えてみると、車でよく通るこの道をお堀や石垣を眺めてながら歩いたのは初めて。。。。。東京に住んでいるといつでも行けそうな気がするんですが、、、、、。
地図

内堀通りの信号を渡って、桜田濠から桜田門警視庁・霞ヶ関方面。。。
何かを象徴するかの様な曇天。。秋空の様にすっきりとは行きませんね。
晴天なら緑のある東京でも指折りの水辺の風景ではないでしょうか。
桜田堀

右の写真は桜田濠から左の写真は半蔵濠からの半蔵門です。
半蔵門
新宿通りが真っ直ぐ延びた所に半蔵門があります。服部半蔵の屋敷があったからこの名前が付いたと・・。甲州街道はこの門からで、この街道沿いは幕府の直轄地で、重要な防衛ラインの始点でした。この当たりの桜田濠はかなり下の方に水面があり、桜田濠から半蔵門への土手はかなり高いです。
現在、皇族方が皇居を訪問する時に利用するのが半蔵門だそうです。

千鳥ヶ淵公園内を歩いて、代官町通りへ右折。
半蔵濠と千鳥ヶ淵を分けている土橋は明治以降のものだそうで、江戸時代にはこの代官町通りはなかったそうです。この当たりは桜の時期に歩きたいですね。でも混雑してるから・・、季節はずれの今もいいかもしれません。。
通りの左手の土手は千鳥ヶ淵の石垣の上を歩くことになるのだけど、今回は右手の歩道を竹橋方面に向かいました。
左の写真の門が乾門。これは明治以降の門なので、他の門の様に渡櫓のある造りではなくお寺の門の様です。天皇陛下が公務で外出される時に利用される門だそうです。
中央の写真が北桔橋門。右の写真は、平川濠からの大手町方面。
乾門

竹橋を過ぎて平川門へ。竹橋は今はなく竹橋門の碑がありました。
東京の交通情報では、「竹橋」やこの先の「一ツ橋」の地名は毎日耳にします。
一橋家の屋敷はこの当たり・・。
平川門
平川門は、江戸城の鬼門の方角で城内の死人や罪人はここから外へ出されたそうです。さらに、大奥から外に出るにはこの門が一番近い門だったとかで、お局御門とも・・。奥女中がこの門を通ってお宿下がりする姿を想像して見て下さい。この門から出れば、当時の江戸の町の賑やかな神田や日本橋へは近いから、便利だったのかなとも。

和気清麻呂像がありました。何で?調べてません・・・。
この当たりへ来ると大手濠の水がこんなに近くなります。
大手堀

そして大手門です。ここが江戸城の正面になるわけです。
地方の城のあった都市には、大手町の地名が今でも使われていますね。
城内に入った殿様を家臣はこの門の前で待っていた。。。
大手門
今は、この門から皇居東御苑へ入苑出来るので、次回は大手門をくぐってみたいと思います。散策はここまで。。。

話題の皇居周遊ランナーにも大勢出会ったし、夕暮れ時に水辺を歩くガイドブック片手の外国人旅行者も見かけました。
私たちも外国の都市へ出かけると、その都市の水辺を良く散策しますが・・、
都市の水辺はなんとなく落ち着く風景を醸し出してくれる場所です。
江戸城を歩く
この本を参考に、次も皇居じゃなくて江戸城の散策を続けたいと思っています。
いつかまた・・・・・。




昨日の気になったニュース・・・2010/09/03 22:13

昨日も今日も「菅X小沢」の話題・・・。

そんななかで、こんなニュースが。。。。。
65年前、東京湾に浮かぶアメリカ海軍旗艦ミズーリー号上で、全権重光葵が
第二次大戦の降伏文書に調印したのが、9月2日・・・。
今年から、ロシアでは9月2日を、「第二次大戦終結の日」とする法案が可決され、極東ではその記念日の式典が行われたと報じていた。

いま何故??? いまだから!!!
ロシア側は「日本を特定したものではない。」といい、我国の外務省も外務大臣もその言葉を受けて、「日本を特定してはいない。ロシア側の配慮を感じる。」みたいな内容のコメントをしていた。

なんだかな・・・・ヽ(´゚д゚`ヽ) ワッケ!! ヽ(´゚д゚`)ノ ワッカ!! (ノ´゚д゚`)ノ ラン!!

日本が連合国側のポツダム宣言を受諾して、あの悲惨な戦争が終結したのは、8月15日。連合国側であるアメリカもイギリスも対日戦勝日は8月15日。
なのに何故、今になって、ロシアは、9月2日を大戦の終結の日に法制化したのでしょうか。

経済大国から落ちて行く日本に追い討ちをかけ、ロシアの極東に於ける
北の資源と島々の領有の正当を無言のうちに誇示するため・・・。
今の日本にはそれに反発する元気は・・・、なし。
経済・外交そっちのけで、次期総理大臣の椅子の争奪戦!

日本人は、自国の領土に対して淡白なんじゃないでしょうか・・・。
いったい大戦前の北の国境線は何処??知っていますか?
日本と露西亜の間にどんな条約が存在していたの??

日露平和条約が締結されていない現在、安政元年(1855)の日本国露西亜国通商条約で取り決めた国境線が、基本になるのでは?
そして明治政府が、榎本武揚を特命全権大使として締結した最初の対等な条約であると千島樺太交換条約(1875年)が存在します。
この条約で、樺太全島はロシアに、千島18島を日本に譲渡する取り決めが行われたが、その後、日露戦争の講和条約(ポーツマス講和条約 1905年)で
樺太の北緯50度より南の部分は再び日本に譲渡された。
第二次大戦時は、ソビエトは日本とは日ソ中立条約(1941年)を締結し、ヨーロッパ戦線においてドイツと応戦したが、終戦まじかの8月9日以降、中立条約を無視しソ連軍の進攻が行われた。
8月18日、千島最北の占守(シュムシュ)島に上陸、その後南下を続け、国後島、色丹島占領し、最後の島を占領し終えたのは9月5日だった。

この間、ソ連は連合国に対し、千島と北海道の北半分をソ連の占領地域にすることを要求した事実を知る人は、今どれぐらいいるだろうか?
もし、連合国がこの要求に応じていれば、今、釧路はロシア領になっていただろう。沖縄の様に返還されているとは思えないが・・。

第二次大戦の連合国と日本は、1951年サンフランシスコ平和条約を締結し、
その条約にて、千島列島と南樺太の権利、権原及び請求権を放棄した。
このあたりについては経緯が複雑な様ですが・・・。

さて、何処までが日本の領海となるのか??
一度考えてみてはいかがですか。。。
サンフランシスコ平和条約には、ソ連は参加していませんから、いまでも日本とロシアの間には平和条約が存在しないのです。
樺太千島交換条約は国際法上認められるべきものであると考えるか?
千島列島は何処までをさすのか?
1956年、友愛の伝書鳩の祖父一郎首相が、領土問題を棚上げにしたまま
日ソ共同宣言に調印し国交が回復し、現在に至っている。

このまま何事も無いかのように淡白に過ごしていていいのでしょうか・・。
小さく扱われたニュースでしたけど、学校で教えない出来事ならば、マスコミは過去の歴史を知らせる努力をして欲しいと感じてしまいまた。















いざ、成願寺へ・・・2010/08/18 19:30

湯河原は、平家討伐の兵を挙げた源頼朝に関係する史跡が散在する地である。
この休みに、幾つか訪れるつもりでいたのだが・・・。
毎日暑いので・・・。
今日、スタンドへガソリンを入れに行く途中で、「いざ、成願寺へ・・」と出かけまた。車を停める所があるかどうか心配だったのですが、駅の裏の道を登って行くと、参道の階段下に空地がありました。ちょっと失礼して其処に駐車させてもらいましたが、階段昇って行くとちゃんと駐車場がありました・・。

東国の有力豪族土肥一族の墓所のある曹洞宗の成願寺は、湯河原駅からすぐの古刹である。
現在のJR駅から寺の当りが土肥実平の館跡とされていて、駅前に実平と夫人の像があります。夫人は、土肥実平が石橋の戦いで敗れた源頼朝を助けた時に内助の功を発揮したと記載されていました。
土肥実平と夫人像
頼朝挙兵については、・・・、省略。歴史は、自分で調べると興味がますものですよ。なんてネ。。。

成願寺の参道の階段は、強い日差しを遮ってくれる大きな木が両側に高く繁っています。鎌倉時代からの古刹のたたずまいがありました。
参道
両脇に仁王像が立つ山門をくぐりと、階段の上に「成願寺のビャクシン」の巨木が大枝を張り出していました。
山門と巨木
このビャクシンは、幹の周長6.0m、樹高20mの樹齢800年といわれ国指定天然記念物の古木です。ビャクシンは、樹齢を重ねると幹にねじれが見られる特徴があるそうですが、この木も幹が大きくねじれていて、枝は広く張っていて緑の葉を茂らせて、強い日差しを遮る影をつくっていました。
国指定天然記念物ビャクシン
枝の途中にこんな小さな芽が・・・。まだまだ元気なビャクシンの巨木のようです。この木は、長い歴史を見て来たんでしょうね。いつまでもここから海を眺めていて欲しいと思いました。
こんな新芽が・・

境内
静かな境内でした・・・。左手の奥に土肥一族の墓所があります。
10坪ほどの墓所に66基の、鎌倉様式の墓石や室町時代の石塔があり、一箇所で各種の墓形が見られる墓所はめずらしいと書かれていました。
土肥一族の墓所

意を決して暑さのなか出かけてよかった・・・・・。









重光葵記念館・・2010/08/15 13:10

65回目の終戦の日・・・。

昨日午後、重光葵(しげみつまもる)記念館へ出かけて来ました。
この記念館は、奥湯河原にあった重光家の別荘を、10年ほど前にご子息が
激動の昭和史を伝える使命を感じ、そして父を偲んで開かれたものである。
平和への努力ー重光葵の生涯ー

いままでに何回もこの道を通っていましたが、ここに記念館があることに気がつかなかった。.
今回、終戦の日を前に、外交官重光葵記念館を訪れ、彼の終戦への奔走と足跡を知ろうと思って・・・。「終戦物語」「東西の架け橋」「日米開戦」の3本のビデオを公開し、書斎机や手紙・写真などの遺品が提示された小さな記念館である。奥湯河原の深い緑を背にした静かな庭は、当時の姿を残しているそうです。
重光が浜辺で拾った小船の残材で作った手作りの炉が、心悩ます外交を忘れさせたひと時の憩いを思わせるもので印象に残りました。
重光葵記念館

重光葵の名前は、無条件降伏後ミズーリ号上で降伏文書に調印した人物として認識している。実は、外交官・政治家としての経歴をすべて知ってはいない。
彼が駐華公使として昭和6年の上海事変の迅速な停戦に努力し、その後、爆弾テロで右足を失った事は知らなかった。その後、駐ソ・駐英大使そして外務大臣を務め、戦争終結に木戸内大臣と奔走し終戦への道筋をつけた。
そして、戦後処理の日本首席全権としての降伏文書への調印、どんな思い出で不自由な足でミズーリ号のタラップを登ったのか、想像する以上の思いが去来したであろう。
東京裁判で、禁固7年の有罪判決を受けるも、刑期を残し釈放される。
後日、キーナン首席検察官が、「重光は無罪であった。」と語っている様に、
彼が終戦平和工作に心血を注いだ事が明白である。

公職追放解除後、政治家ととして改進党総裁、日本民主党結成副総裁、
鳩山内閣副総理外務大臣として、戦後政界で活躍。
日ソ国交回復の交渉において北方領土問題解決に努力するも、4島返還は困難で歯舞・色丹両島返還を約しての平和条約締結を進言するが、鳩山首相の日ソ共同宣言による国交回復に終わり、今日まで、4島どころか2島も返還されないまま半世紀が過ぎようとしている。
ソビエトが崩壊しロシアは、領土問題を解決しないまま時を流していくだろう・・。
日ソ国交回復により、1986(昭和31)年12月、国連加盟が実現し、重光葵は、「東西の架け橋」演説を行った。
これが日本の外交に生涯をささげた最後の仕事となり、翌年1月湯河原で狭心症のため69歳で死去。あと数年、ソビエトとの因縁ある外交交渉が見て見たかったような気もする。
終戦の今日、彼の言葉を思い起こし、平和と友好を念じたいと思います。

重光外相は日本代表として、12月18に国連総会で加盟への謝辞とともに、
演説をおこなった。その中で、日本国憲法はその前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した・・・」とあるのは国連憲章の目的及ぶ原則に合致する、国連が大量破壊兵器の禁止に力を尽くしていることは唯一の原爆被爆国たる日本国民の悲願と一致するなどと述べ、最後に、「わが国の今日の政治・経済・文化の実質は過去1世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西の架け橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分理解しておるのであります。私は本総会において、日本が国連の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明し、私の演説を終わります。」・・・「平和への努力ー重光葵の生涯ー」より・・・
藤木川

高校 日本史必修にあらず!2010/07/30 21:59

本日の読売新聞社会面、 「学力考・・生徒3割 日本史素通り」に、
「目が点」 ∑(゚ω゚ノ)ノ 驚愕の・・ !。。。

今日の高校の学習指導要領では、「地理歴史」教科は、原則2科目必修で、
必ずとる世界史に加えて、日本史か地理のどちらかを選択すればいい。
この事実を始めて知った!
世界史は必修で日本史は選択???
うそでしょう~~ (´-ω-`)本当かよ!
何で世界史が必修で、自分の生まれて住んで居る場所の事(歴史)は選択で、
選択しなかった生徒は、その後何かの拍子に日本の歩んで来た道を知りたくなって勉強しなければ、ず~と知らないままでオ・ワ・リなの。

それでいいの???

世界史必修は、文部科学省の役人の考えそうな浅はかな選択に思えてくる。
小野妹子、大化改新、遣唐使、藤原道長・頼道、元寇、・・・・・・なんか勉強するより、大雑把に世界史を知っていた方が、社会に出て役立ち世界に通用するだろうなんて考えたんじゃないの。
どうせ、日本史の授業は急いでも一年で江戸中期程度までで、幕末近現代は受験用で補修授業なんだから。それなら、世界史を必須科目にして、広く世界に目を向けさせた方が得策だなんて考えた。
文部科学省は、日本史の履修状況の数値を持っておらず、教科書の需要数から推計して、生徒の3割前後が日本史を履修していないと記事は書いている。

どんなことがあっても高校で日本史を学ぶべきだと思う!!

1年の限られた時間では、原始、古代、中世、近世、近代、現代の政治文化のすべてを知ることは難しいので、そこは、政治や文化の通史であってもいいように思う。文化史を学べば、おのずとその背景を知ることになるのだから。
また、日本史を学ぶことによって、世界史が理解出来る。
特に、アジアを知るためには、中国、韓国の関係は、日本史を学ばずどうやって判断することができるのだろうか。
それぞれの国が、自分の国の歴史を知って、そこから道を探すことが重要だと思う。自分のルーツを学ばなくして、他人のことはとやかく言えないでしょう。
歴史を学ぶという事は、ルーツを学びそれを生かして行くことなのです。

記事には、文科省が日本史を必修化しないならばと、自治体独自で動き出したところもあり、特に近現代史を中心にした内容が目立つとある。

65年前の8月に何があったのか?
それは何故起きてしまったのか?
せめてそこだけは素通りせずに、知って欲しいと思います。
そして、自分の国を大切に思って欲しいと思います。
自分を愛せない人は、他人も愛することが出来ないように、
自国を愛せない人は、他国を思いやることは出来ないでしょう。

でもそんな難しいことより、
「日本史て面白いですよ! 一度はまると抜けられなくなります。
昨今の歴女の方々をごらんあれ。時代は何処でもOK。 楽しいです~よ。」












復原建築・・平城京1300年記念祭・・2010/07/09 22:45

先日、「復原 祭りの後の役割は・・」というタイトルで、
平城宮跡に復原された、大極殿(だいごくでん)と朱雀門
についての記事が目に留まりました。

平城遷都1300年祭のシンボルとなっている大極殿と朱雀門について、
これらの復原された建物が、遷都記念祭の終わったあとに存在する
価値と意義について書いた記事です。
(日本経済新聞 7/1 京都工芸繊維大教授中川理・建築史)

昨年春に、西大寺を通った時に、建築中の大極殿を車窓から見ました。
平城宮跡の発掘調査は、長い時間の中で積み重ねられてきたことは、
幾たびも奈良を訪れた風景の記憶のなかに残っています。
朱雀門の建築については、発掘調査から「5間3門」の平面形態は
断定出来たが、それ以上の上部斯架構については、
現存する奈良時代建築から推測を重ねなくてはならなかったと
記載されています。(文化財建築物保存技術協会H.Pより)


記事には、復原事業で建築される歴史的建築物の上層部については、
「いくら厳密に考証を重ねても多くの部分が推定とならざるえない。
・・・極端に言えば歴史をねつ造するようなことになるのではないか。」
と、一部の研究者の批判を紹介している。

復原された歴史的構築物が、すべて正しく再現されているとは思わない。
専門家が同じ資料で考証しても、いく通りかの推測がなされるのだから、
決してそれを歴史のねつ造だと批判するのは、行き過ぎな意見だと
言えないだろうか。
ただし、安易に歴史的構築物を、復原すべきではないが。

記事では、明治28年(1895)平安遷都1100年祭の時に、
平安神宮の社殿が、平安宮の大極殿・応天門の復原建築として
再現された事実と、今回の平城宮の再現を比較している。

「復原建築は、記念建築としてお披露目された限りにおいては、
多くの推定の上に成り立つ建築でも価値を持つということになるだろう。」と、
復原建築を認めながらも、現代は、復原建物に永続的な価値を見出すことが
困難な時代で、博覧会のパビリオン的性格との違いを説明するのが
難しく、この再現された歴史的な構築物の記念祭の後の存在価値を
心配している。

明治28年の京都は、幕末の戦火と東京遷都による古都の荒廃を
乗り越えるために、平安遷都1100年祭が大きな役割を果たしたのである。
現在の平安神宮の社殿である平安宮の大極殿をそして応天門の復原を行い、
内国勧業博覧会を開催し、平安遷都1100年祭を契機にして歴史都市の存在を
内外に認めさせた。
復原された建築物は、115年後の今でも、多くの観光客を招致しその存在を示している。

パリ博覧会時のエフェル塔は、復原建築ではないが、今は歴史的な存在意義を持つ
建築である。
つまり、平城宮の大規模建築の存在意義は、今後の生かし方しだいだと言える。
平城宮跡がもっともっと評価されるように願っている。