エェ!!「新選組血風録」・・・2010/12/13 20:36

冷たい雨にようやく「12月が来たな」と感傷にふけっていたら・・・、
何とあの不滅の作品が!!
「新選組血風録」がTVで始まるって!
嘘でしょ!
早速に検索して、ことの真相を突き止めました。

来年の4月からNHKBS放送が今の3chから2chへ再編されて、
その4月からスタートするのが、司馬遼太郎原作「新選組血風録」って訳。。。
まさか、昭和40年の結束信二脚本、栗塚旭主演の「血風録」が・・・。
違います!

脚本は誰だか知りませんが、土方歳三役は永井大。
あとはまだ配役が出てない。。。
御免さい。永井大を知りません。
義妹に聞いてみました。
「イケメンで、まあまあの役者だよ。いい感じだけど好みじゃないけどね。」だって。

よりによって「血風録」をやってくれなくてもいいのに・・・。
役所広司の「燃えよ剣」も見たくなかったもんね。

「話は簡単じゃない。別に見なければいいでしょ。」
でも見ちゃうかも・・・。勝手にしたら!ですよね。
制作するなら、せめて数年前の三谷作品「新選組」で土方を演じた山本耕史で
制作して欲しいな。
あの作品は、三谷作品独特の作風だったから、ガキ大将の様な土方で、賛否ガクガクだったけど、坂崎磐音を骨太にした静かで冷徹な山本耕史の土方を見てみたかったのに・・。

アァ・・・、何でいまさら「血風録」をやるのよ!!
だったら「居眠り磐音」の続編でもやってくれればいいのに!













「黒龍の柩」・・・2010/12/07 23:00

夏休中に読破宣言していた、北方謙三著「黒龍の柩」上下はその後、読み終ったの?
何方にも尋ねられないけど、お答えすます。
8月中には読み終らなかったけど、すでに9月初旬には読む終えております。
読み終えたのですが、何だか読後感想を報告するチャンスを逃しておりました。
理由は定かではないのですが・・・・・。
もしも、この本をこれから読むつもりの方で物語の結末を知りたくない方は、この先は読まない方が良いと思います。。。

友達と新選組の土方歳三と山南敬助の関係について話していた時に、
彼女が、二人の面白い関係が書かれた小説として「黒龍の柩」を進めてくれた。
その時は物語全体の話題より、この二人の関係をこんな風に解釈するのも「ありでしょ。。」との事だった。
北方謙三の歴史小説は初めてなのと、ハードボイルド小説家が描く土方像で私の中で出来上がっている新選組や土方のイメージを壊される事はイヤだったので、ちょっと躊躇しながらこの本を手にした。
北方謙三は「ハードボイルド小説の主人公は、一途な男でなくてはならない」と語っていたのを聞いて、一途な男=土方歳三は間違えないのだが・・。

この本の上巻の帯にある著者の言葉は・・・、
「潰えていく男の夢を、私は描きたかった。土方歳三が、主人公になっている。新選組を扱った小説は、多数ある。あえて新選組を素材の中心にも持ってきたのは、そのイメージもまた、どこかで変えたいという、小説家としての欲望があった。」

著者の小説手法なのか、登場人物の会話で進むストーリー展開。
新選組のあり方と土方の男としての夢に対しての、土方と山南の会話。
どちらの言葉か,順を追いながら読まなくてはならない。
病魔に犯され余命いくばくと悟った山南が、土方の男の夢の為に自らの命をかけて、
幕閣勝海舟の不戦を貫き列強から国を守る事の意を探りだし、さらに、新選組の分裂危機に、土方歳三が男の夢を見ることを願って、脱走切腹の道を選択する。
山南敬助の突然の脱走と局中法度による切腹の事実を、こんな形で結びつけたストーリーに、友人が進めた理由がわかった様な気がした。この小説に描かれた強い山南敬助は、なかなかいい。
著者は、山南が切腹の行為で己の腹に刃を刺す事によって病巣を自ら掻き出す強い男に描き、そして、土方の切腹を命じる冷徹な姿に、混乱の時代に己の夢を貫く為に生きるハードボイルドの主人公を描いた。

さて、この小説の登場人物は、新選組のメンバーの他は、幕臣勝海舟、小栗上野介忠順、坂本龍馬、そして徳川慶喜である。
ピースメーカーの坂本龍馬は、薩長と幕府との内戦回避の為には、戦わずして政権返上した徳川慶喜を隠密裏に蝦夷地へ渡らせて、そこに新国家を建設する構想の実現に、徳川家の存続を想う幕臣勝海舟を動かす。
著者は、蝦夷地での新国家構想実現に向けて、京都に於いて土方歳三と勝を出逢わせ、彼に新選組の枠を超えた男の夢を抱かせる。土方と勝の出逢いは、意標を突く組み合わせで驚いた。史実的に勝は、新選組土方歳三を好まなかっただろうから。
また、土方と龍馬の密会の場面もある。そして、「京に入るな。武力倒幕派の暗殺は半端ではない。」と忠告している。この小説では、龍馬暗殺は薩摩西郷の仕業としているのも面白い。

下巻の帯の著者の言葉に・・・
「小説である。正史をなぞるわけではない。権力移譲の不可解さから、想像力が働き、ひとつの仮説の中で、人の物語が立ち上がったのが、この作品である。」

仮説「徳川慶喜を蝦夷地へ・・」の実現の為に、鳥羽伏見の戦いの後、この小説の土方歳三は、北関東・会津・奥州と転戦しながら勝そして小栗上野介のもとを飛廻り、山中に潜伏する慶喜を警護し、自らは蝦夷へ渡る。スーパーマンの様な活躍振りが描かれていて、さすがにハードな主人公である。
このまま夢が実現して慶喜が蝦夷へ渡ってしまうのかと読み進むと、小栗上野介の惨殺そして勝と西郷の駆け引きによって夢が潰えて行き、物語は箱舘での終結へと。。。
そしてなんと、最終章ではこの物語の初めから登場していた武士の身分を捨てた料理人久兵衛が、土方歳三の影武者として一本木に死し、土方歳三は、北の大地に馬を駆けてフェードして行くのである。
蝦夷に夢を実現しようとした男たちが見た夢は、美しすぎたので潰えたと、著者は土方に語らせている。夢を抱くものにとってその夢は、いつでも美しいもであるから、実現しようと努めるのではないのか。その夢が潰えたとき、何故実現出来なかったのかと振り返る。著者は、久兵衛なる人物を最後に影武者に仕立て、結末で夢破れた土方をフェードさせるために利用している。
正史のなかの仮説物語は、夢を追う男として土方歳三を葬ることなく、消え去らせたのであろうか。








夏休み・・夏休み♪♪・・2010/08/12 21:54

今日から夏休みです!!
1週間の夏休みを湯河原の海のガーデンですごす予定です。
この1週間、庭仕事だけで過ごすなんて事は、絶対ナイ!

溜まった本を読破!
予定しているお皿を描く!
湯河原B級グルメ「坦々焼きそば」を食べる!
TVの湯河原名所めぐりで見る旧跡寺社を訪ねる!
もちろん庭の手入れ!

欲張り過ぎでしょうか??
東京から持参した本だけは読み終えたい。

昨年末の友人お薦め本・・・「黒龍の柩」上下 北方謙三著
この本の主人公は、土方歳三。
北方謙三の描く土方は、一度は読む価値ありと薦められて読み始めたんだけど、この小説をゆっくりと読む時間がいままでになくて、中断していました。
今回一から読み直しです。

「謎とき徳川慶喜 なぜ大坂城を脱出したのか」 河合重子著
「幕末維新消された歴史 武士の言い分江戸っ子の言い分」 安藤優一郎著
この2冊は、繰り返し読んでいるので、手元に置いて置きたく持参。

それと、あと1冊・・・コバルト文庫「あさぎいろの風 たまゆら」
先日来、このライトノベルにはまちゃったんです・・・。
これは間違えなく読み終わります。
これで「あさぎいろの風」全巻完了。

この夏休みの読書は、「土方」がキーワードのようですね・・・・・。

夏休み初日は、外は台風4号で大荒れでした。










総司忌・・・2010/06/20 22:53

日曜日の午前中のけやき坂は、車も人通りも少く、静かでした。
けやき坂を登って、旧テレ朝通りへ・・・。
日曜午前のけやき坂風景
沖田総司の墓所のある麻布の専称寺は、旧テレ朝通りに面しています。
総司のお墓参りは、大出俊幸氏のご尽力と沖田家とお寺の御好意で年に一度だけ可能なのです。
「新選組友の会」主催の第36回総司忌が、今日でした。
専称寺
沖田総司の墓参は、昭和40年代に司馬作品「新選組血風録」「燃えよ剣」が放映されたことにより、ここ専称寺さんの総司の小さなお墓をお参りする方々が年々増え続けました。
そのなかには、心無い悪戯をする人もいて、昭和49年(1974)から一般人の墓参が出来なくなりました。
それからは、大出氏を中心に年に一度だけの墓参が可能になったのが、「総司忌」の始まり・・・。今回で36回になるそうです。
総司忌
実は、私は、一般の墓参が出来なくなる以前に、一度だけ総司のお墓をお参りしています。それは、昭和46or47年頃なんだろうと思います。
やはり、新選組作品のテレビ放映を見て、島田順司さん演じる沖田総司に心ひかれ、お墓参りをした思い出があります。
そして、総司忌に参加したのは今回が初めてです・・・。
若い女性の方々が大勢参加されているのは、もちろんですが、かなり年配の男女の方々も参加されておられました。
年に一度のお墓参に参加されたそれぞれが、小さな古い墓石に手をあわせて、総司に語りかけます・・・。

午後からは、渋谷国学院大学院友会館の3階で、沖田家のご挨拶、そして、
作家越水利江子さんの「恋する新選組を書きおえて・・新選組追っかけ泣き笑い作家人生」の講演がありました。

初老のご婦人が、シャンソンの「さくらんぼうの実る頃」の曲で、
・・・逆巻くうねりの中で 変らぬ誠を掲げ
  男たちは 振り向きもせず 大空へ飛んでいった
   ・・・・・さくらんぼうの実る頃は いつもしのんで うたうよ・・・
                              と、独唱されました。
この曲、「紅の豚」のなかでマダム・ジーナが飛行艇乗りの恋人を思って歌っていました・・・・・儚い恋を歌った有名なシャンソンですよね・・・
それを、失礼ながら年を重ねられたご婦人が、新選組の人たちへの思いを詩にして歌たわれのです。
新選組への思いは、年齢は関係ない事を実感。。。。。
その他、沖田の主筋にあたる奥州白河藩主の阿部家の御当主、佐藤彦五郎家の方、勝海舟の三女の子孫の方々が一言、ご挨拶がありました。

最後には、抽選会もあり、クリアファイルを頂きました。

総司忌は、お寺との約束で絶対にお寺に問い合わせの電話をしてはいけないことになっています。もし、問い合わせの電話をしたら、その翌年から墓参は中止になるかもしれません。ところが、今年は、お寺へ電話をされた方が何人か・・・。それも、無礼な電話であったとか・・。
代表責任者の大出氏がお寺側から強く注意されたそうです。
総司忌について知りたい方は、直接「新選組友の会」へ!!
お寺に電話をかけた方が、どうしてそんなことをされたかはわかりませんが、
多くの方々が、一年に一度の墓参で総司と対面したいと思っているのですから、それを裏切る様な事は決してすべきではないと思います。


総司・・千駄ヶ谷村池尻橋際2009/10/22 00:55

千駄ヶ谷村池尻橋際
10月21日
10月の中を過ぎて秋の気持ちの良い昼下がり、昼休みの散策に出掛けました。
実はちょっと目的があったのです・・・、以前から、一度確認したい場所がありました。
沖田総司の終焉の地です。菊池明氏が著書「沖田総司伝私記」で昭和そして明治の地図・江戸時代の絵図と考察してその最後の場所を特定しているのです。詳しくは上記著書をご覧下さい。
実は、外苑西通りに面したその場所は、いつもなにげに車で通り過ぎている場所で、その周辺を歩く事がないので、一度歩いて見たいと思っていたのです。
今日は昼休みを利用して出掛けてみました。

総司が最後を迎えた場所は、千駄ヶ谷池尻橋の際、植木屋平五郎こと柴田平五郎の離れ座敷で、
「家の周囲は広々とした畑と田畝で、雑木林の森がどっちを向いても青く見えた。藁葺き屋根で、八畳か十畳くらいの座敷、南と東に向いて粗末な縁側がついていて、一日いっぱい障子に陽が当たって時々鳥影がさした。」・・「新選組遺聞」(上記書より転記す)
長閑な場所であったようです。

千駄ヶ谷は、杉浦日向子著「江戸アルキ帖」には、
「千駄ヶ谷は昔、見渡すかぎり萱野原で、一日に千駄(荷の単位・一駄は約350Kg)の萱がとれることから千駄萱(のちにヶ谷)と呼ばれるようになったという。
千駄ヶ谷から原宿村へかけての一帯は、一部の寺社地と武家の小屋敷を除けば、ほとんど田畑と雑木林という田舎じみた土地だ。
江戸は、隅田川と江戸城の両方に近いほど都会で、それから離れるにしたがい鄙びてくる。
日本橋あたりで生まれ育ったものが、ここらへんに三日でも住んだら、あまりの長閑さに、恐怖感さえ覚えるようになるんじゃないかと思う。草深い小道の両側には昼間でも何かの虫の鳴く声がする。」とあります。

「千駄ヶ谷池尻橋の際」という場所は、今では外苑西通りを青山方面から四谷四丁目交差点へ向かい首都高速道路・JRの架橋を過ぎて、大京町の交番手前新宿御苑を左手にその向側当たりをさすようです。

「江戸切絵図・内藤新宿千駄ヶ谷辺図」には、信州高遠藩内藤家の屋敷から南に流れる細い水路があり「橋」と「水車」「植木屋」の文字が書き込まれていて、菊池明氏は、明治45年の「地積台帳」に残る柴田平五郎の名前と地番を「地積地図」で確認し、明治17年の「五千分一東京測量原図」に記載されている平五郎所有地・家屋を特定しています。

その測量原図には、母屋と離れ座敷と推測出来る長方形の建物と正方形の建物が描かれていて、さらに、昭和34年頃の「東京三千分一図」に上記測量原図の縮尺を合わせて、離れ座敷の位置を数メートルの誤差範囲で特定しています。

明治になり高遠藩屋敷は新宿御苑となり今日に至り、絵図にある細い水路跡は外苑西通りを挟んで北側(大京町交番側)は御苑に沿って存在し、南側は子供の遊び場となって残っています。この当たりに水車小屋があったのでしょうか。

慶応4年3月頃に総司は千駄ヶ谷に移り、5月30日に25歳(27歳)の生涯を閉じています。
江戸の外れの長閑な千駄ヶ谷村の慶応4年は、どんな風が吹いていたのでしょうか。
時節柄江戸市中同様に騒がしい風が吹いていたのでしょう。それとも・・・、小川の流れに水車が回り野の花が咲き始め、植木屋の庭は春から初夏への新緑が輝き、鳥の影が障子に映る長閑な風が吹いていた・・・。
そして、沖田総司はこの場所で、京都での騒乱の5年間から解放された安堵感を持ちながらも孤独な終焉の時を迎えたのです。

先の大戦で東京は焼け野原となったので、御苑の大木の中に140年以上の老木があるかどうかは定かではありませんが、もし残っていたら、慶応4年のあの日を知っているのかもしれない・・・・・。

「わが青春の沖田総司」-3・・2009/10/16 00:12

島田順司著「わが青春の沖田総司」のつづきです。
http://kazahana.asablo.jp/blog/2009/10/03/4613341

「新選組血風録」の沖田役に抜擢された時、島田順司さんは26歳。
そして、「燃えよ剣」の沖田役を演じた時は、30歳でした。
その後、舞台で結束信二氏作・演出で沖田を演じたそうですが、残念ながら、私はこの公演は見ていないのですが・・・。

彼は、私生活でも「燃えよ剣」の撮影前に長男が誕生しており、役者としてイメージが固定する事を嫌ったのか、この時は一度は沖田役を辞退したと何かで読んだことがあります。
「・・再放送があったりすると、直接ボクにその反響は伝わって来ないけど、やはりどこかでフィルムを見ててくれる人がある、それは有難いことだけど・・・・・しかし、そう喜んでばかりもいられない気がしていたんだ、もう完結してしまった世界だから、脱皮というほどではないけど、もっと、きつく自分が演じていく方向を探していかなくちゃと思っていたわけでね。」と、
沖田総司のイメージを払拭する為に喘いでいた様です。

そして、「・・大内美予子さんとの出逢いやらいろいろあるんだけど・・・」を経て、

「「俺のやりたい芝居は、こうだ!」・・・芝居をやるからには、
「ボクはこのことについて、こう思ってるんだけどどうだろう?」と役者自身が問いかけていく芝居がしたい。
ボクの演った沖田をいいな、と言ってくれた人が、僕の違う芝居を見てくれるようになって欲しなと・・
そこで沖田を芯に据えた芝居っていうのをやってみようということになって、・・・・・、
つまり、沖田総司という若者の内なる世界をどうやって描き切れるか・・・ということになったんだ。」

こうして彼は、1976年2月名古屋の小劇場で、今まで彼が演じて来た沖田総司ではなく、
「「恋」とか「死」とか、人間に課せられている一つ一つの命題を見詰めて描く・・」
「終焉そして邂逅」というタイトルの芝居を上演しました。
「わが青春の沖田総司」のなかに、この脚本が載っています。
そしてこの脚本の作者が大内美予子さんなのです。彼女については後日に譲りたいと思います。

「終焉そして邂逅」は、「一人の若者が生き、そして死んだ。」という語りで始まり、「誰が、語りかけようと、すでに完結した君の人生はどうかえることもできない・・だが、ボクは、君に語りかけることを、決して無意味だとは思っていない・・それが一人の人間との邂逅である以上。」とあります。
そして最期に、エピローグとして島田順司さん自身の言葉で語っています。

沖田総司は、戦の中で死んだんだ。彼は彼の正義のために人を殺しただろうけど、しかしそれで彼自身傷付かなかったとは決して思えない・・・これから(戦争によって)そういう若者を作り出しちゃいけないんだ。 
彼の持っている矛盾に魅かれる・・それは分からないことじゃないけども、沖田が、どうして矛盾を持って生きなければならなかったか、それを考えてほしいんだ、人間本来のやさしさ、しあわせ、そういうものを追求したがる青春ってものの姿の裏側に、一体何のために人斬りというもう一つの姿をおしついけなければならなかったか。ね。それが戦いってものなんだよ。
戦争ってものを見た・・そして脳裏にやきつけた最後の年代の人間として・・若者たちにとっては、
あるいは空しい言葉かも知れないけど、やっぱりどんな形でもいいから伝えていかなくちゃいけない。ボクの演じた沖田の中に、もしも・・もしもだよ、人の心にうったえるものがあったら、それは、戦いと、死とを背負った人間の哀しみ、それがあるからなんだと思う。
生きて行くことは、やっぱり、一時期、一時期、生命の有効性を燃焼させて行くほかは無いって思う・・俳優として明日の自分のために、何かを作り出して行く努力を続けて行こうと思ってるし・・。

「わが青春の沖田総司」が出版されたのは、1977年、島田さんが39歳の時です。
島田さんは、7歳の時に広島県で終戦を迎えたと書いています。
多感な少年・青年時代を過ごした1950年代は、日本は朝鮮戦争による戦争特需で戦後の復興を遂げ、演劇活動を開始した1960年代は、世界は米ソの冷戦の時代となり、1962年のキューバ危機、1970年の泥沼化して行くベトナム戦争の時代でした。
当時高度成長期の日本において、反戦運動の反面で戦争の悲惨さが薄れて行く出来事も沢山ありました。ベトナムで戦死した米兵の遺体を清める高額なアルバイトが話題になった事を覚えています。
こんな時代に、役者として「役者自身が問いかける芝居」を模索していた彼が、友人のルポライター児玉隆也さんの死や大内美予子さんとの出逢いで、「戦争によって苦しむ若者を作り出してはいけない。」と、沖田総司の姿を通して訴えたのです。

島田順司さんにとって、総司との邂逅(出逢い)は「わが青春の沖田総司」そのものだったのではないでしょうか。はじめは、ファイルムの前で演じる事に戸惑い、そして役者としてイメージの固定への戸惑い、そして、総司を演じきる事により自分の思いを表現する・・。
そしてその思いを、文章にしたのがこの本だったのかもしれません。


そして、71歳になられた今、島田順司さんが、栗塚旭さん・左右田一平さんと再会して何を語るのか・・・・・。

「わが青春の沖田総司」-22009/10/03 20:19

島田順司著「わが青春の沖田総司」のつづきです。
http://kazahana.asablo.jp/blog/2009/09/29/

島田順司さん、「新選組血風録」の沖田役に抜擢されるまでは、
「・・芝居へ出たって、千円以上はもらえない、旅興業で一日・・800円か・・せいぜいそんなものだった。芝居の無い夜、徹夜でガリ版切るんだけど、そんなの高が知れてるし・・。」そんな舞台中心の劇団員が、沖田役に決まっても、
「新劇育ち・・。・・フィルムに自分が写るということに、何のリアリティーも感じなかった・・」新劇育ちの彼は、フィルムの仕事(映画)でご飯が食べて行けるとは考えられなかったと書いています。

「同じ劇団の左右田さんもいくというから、ま、一緒についていけば何とかなると思って、京の都へ出かけることにした。」と、まるで沖田が、近藤さんや土方さんについて京の都へ出かけたのと同じような気持ちが綴られている様な・・。
「子供の頃のチャンバラゴッコが実際の仕事だなんて、ちゃんちゃらおかしいというか、働いているなんてリアリティーは、まったくなかった。」
「それでも、少ないながら、ちゃんとお金はいただけるいし・・、・・当時の僕にとって決して少なくなかった。」
京都の東映の独身寮で左右田さんと寝起きを共にしながら撮影通いをし、初めてのフイルムの仕事、それも時代劇という仕事に戸惑いながら、
「・・・はぁー、映画というものは、こういうふうにして作られていくのか、なるほど・・・と只関心ばかりしていた。」
「・・・自分の芝居をどうするかってことを考える前に、まず珍しいものが一杯あって、なおかつ食べることの心配がないということは、すごくたのしかった。あまり欲もなかったし、・・・気楽なものだった。」
どこか島田さん演じる沖田総司の姿と重なりませんか。

でもそんな島田さんも始めは、
「時代劇というものをやったことがないから、カツラの付け方もわからないし、カオもどうしたらいいのかわからない、殺陣も出来ない、雪駄も・・うまく歩けるわけがない。
着物を着ても馴れていないから、何となく落ち着かない・・落ち着かないとやっていることが単純になる・・自分の殻にとじ籠もる・・食欲がなくなる・・またまたやせる・・。
一番最初は、とにかくひどかった。左右田さんがいたから何かといろいろ心丈夫だったのは事実だ。・・・そうでなければ、もっともっと、しょぼんとした沖田になっていたかもしれない。」
「・・・アフレコ・・口を合わせるなんてどうしていいのかわからない・・・。目線というのがこれまたわからない。」
初めてのカメラに向かっての演技にだんだん気が重くなって来る時期があったとあります。

「菊一文字」については、
「比較的早い時期に撮った写真だけど・・・後から見ても、あまりむだなところに気を使わず、のびのびとやってるんだ、・・・・ボクはあの写真が気に入っている。
後で自分で見ても、そういうところの芝居はすごくいい・・動いているところは。それが、座って菊一文字をじっと見ながらしゃべるってのは、とてもやりにくい・・・。」
「風去りぬ」については、
「これは僕の芝居だ!って、ものすごく張切ったわけだ、・・・・・話だって哀しいし。
ただ待っている、それだけの芝居なのに、よく、あれだけの話が成立したものだあなと、結束さんの台本に感心したり・・・」

「菊一文字」の時は静の演技が苦手だと思っていた島田さんも、「風去りぬ」ではただ静かに「その時を待つ」演技を見事に演じています。どちらも「血風録」全編のなかで一度見たら忘れられない作品です。

何度か沖田を演じた彼は、
「「血風録」「燃えよ剣」の沖田総司は、やっぱり原作のイメージを忠実に再現しようと、一所懸命つくってるところがある・・・それも役者として大事だと思うけど・・「俺は用心棒」は、割と自分の生地みたいなところで楽にやれたような気がする。・・この沖田(用心棒の)の方が、はるかにリラックスして演じてる・・どっちがいいとは、一概に言えないと思うが。」
そして、32年前の著書には
「・・・我々の仕事って、「昔、よかった」と言われたら、ぞっとするもんね、何を演っても、沖田のイメージで触わられているみたいで、どうも落ち着かないものなんだ。「沖田総司」が、まあ、いろいろな意味で評価されたことを、忘れたいと思ったこともあるね、正直言ってネ。」とあります。

司馬遼太郎作品結束信二脚本で映像化された「新選組血風録」に出会って、
歴史小説は、歴史的事実と創作としての物語が混在するものであることは誰でも理解しながらも、結束信二の脚本を通しての映像化が、見る者には、それまで無名に近かった栗塚旭や島田順司たちの演じた土方歳三や沖田総司が、あたかも幕末の時代から生き返ったかの錯覚を与え、それは、演じた彼らのその後の人生にも少なからずも影響を与えたことは間違えがない事実のようです。

「わが青春の沖田総司」-12009/09/29 22:22

幻の本・・
下記 2年前のお話・・

島田順司著書 「わが青春の沖田総司」
昭和52年4月 新人物往来社出版 定価980円
帯には・・・
島田順司の沖田総司恋歌
沖田総司への恋歌と島田順司の青春が美しい軌跡を描いて飛翔していく。
沖田総司の青春と愛を語る待望の書

実はこの本の存在は以前から知っていたのですが、数十年振りに島田順司演じる沖田総司に出会ってしまったら、島田さんの沖田への想いを直接読みたくなり、どうしても手元に欲しくなってしまいました。でも、すでに廃版でなかなか入手できません。
復刊ドットコムに投票しましたが、再び発刊される日はいつになるやら・・・。
そこで、アマゾンマーケットプレスへリクエストする事にしました。

状態が良好な「わが青春の沖田総司」を探しています、5,000円内で。
しかし、待てど暮らせどメールは届かない日々が続き、ある日、「ご希望に添える本が見つかりません。金額の上限を引き上げますか?」と聞いて来ました。
迷わず、出版当時は980円の本に、10,000円の値を付けてしまいました。

それでも連絡がありませんでした。もしかしたら、状態が良好でない本なら出会えるのかもしれないとは思いましたが、それは譲れない一線で出来るだけ綺麗な本が欲しかったのです。
数ヶ月後、メールをチェックしていたら飛び込んで来ました。
ついに手に入れる事が出来たのです。
実はメールを受信した日は私の誕生日でした。プレゼントを受け取った様に嬉しくて・・・。
誕生日に、幻の本(大袈裟じゃなくて、その筋では・・)が手に入るなんて・・・。

数日で本が届きました。新刊ではないので紙は多少黄ばんでいましたが、想像していた以上に状態の良い本でした。頁を丁寧にめくりながら、今度は読むのが惜しくなったりして・・。
でも、沖田総司を再び生き返らせた役者島田順司の総司との出会いと想い(重い?)を知る事ができたのです。

後日また書きます・・・つづく

時代劇大~好き少女の思い・・・2009/09/17 23:00

結束信二「新選組血風録シナリオ集」
昔、TVで見た番組でもう一度見てみたい番組はありますか?
誰にでも思いでの番組はあるかと思います。

私は子供の頃から、時代劇が大~好きでした。
どうして好きだったのかな・・と思い起こしても決定的な理由はわかりません。
おばあちゃん子だったから、父が江戸っ子だったから、我が家の生活様式は純和風だったから・・・。
「女の子なのにチャンバラ好きで困った子!」の声にもめげずにTVで時代劇を見続け、おまけに冬などは学校から帰って来ると祖母が仕立ててくれたウールの着物に綿入れ半纏を着込で時代劇に見入っていました。
「タケダ・タケダ・タケダ・・」で始まる「隠密剣士」、そしてNHK大河・・・。日曜日の夜8時にはTVの前で正座して見ていました。その頃TVの置いてあった場所が、八畳の和室だったので。

時系列に並べてみると・・(放送年を調べるのに、ネットのデータベースは本当に便利です。)
1960年  白馬童子・琴姫七変化
62年  隠密剣士
  64年  里見八犬伝・赤穂浪士(NHK)・徳川家康
  65年  太閤記(NHK)・新選組血風録
  66年  源義経(NHK)・真田幸村
  67年  三姉妹(NHK)
  68年  竜馬がゆく(NHK)
  69年  天と地と(NHK)
  70年  燃えよ剣
  71年  春の坂道(NHK)
  74年  勝海舟(NHK)
羅列してみるとどれもこれも懐かしい場面が浮かんできます。これ以外にも「三匹の侍」や捕り物シリーズを楽しんでいましたから、ちゃんと勉強していたかどうかはご想像にお任せします。日本の歴史については徹底的に勉強した事は間違えのない事実です。

私にとって、特筆すべき作品は65年の「太閤記」と「新選組血風録」でしょう。
前年からの山岡荘八原作「徳川家康」を見て、そして吉川英治原作「太閤記」で織田信長に出会いました。
司馬遼太郎原作「新選組血風録」で土方歳三・沖田総司に、そして司馬作品を次々と読み司馬ワールドに入り込みました。

当時は「録画」などというすべはなかったので、土曜日の再放送の時にオープンリールのデッキで音声のみを録音した思い出があります。音だけを聞いて画面を想像するのです。
そのテープもいつの間にか無くなってしまいました。

「太閤記」はNHKに「本能寺の変」1話だけ残存していて、先日CATVの時代劇専門CHで放送し、高橋幸治演じる信長の殿に40数年振りに再会しました。嬉しかったです・・。

そして、今週から伝説の作品「新選組血風録」が2007年に続いて再び放送されているのです。今でも初めて視聴する者を虜にしてしまう全26話のモノクロ作品です。
大勢の新選組や幕末研究者達の出発点となったと言っても過言ではないほどに、根強い支持を得ている伝説の作品で、後年、有志ファンによってフイルム上映会が20年近くも続けられていたそうです。
残念ながら、今のように情報が多くない時代でしたので、私は知るすべもなく参加した事はありません。

司馬遼太郎が、栗塚旭演じる土方を見て「これぞ土方歳三」と賞賛し、島田順司演じる沖田総司もまた見る者に「総司」への思いを募らせたのでした。
2004年のNKH「新選組」の脚本を書いた三谷幸喜もまた、この作品への思いがあって、栗塚旭を土方の長兄役で、島田順司を病身の沖田を匿う植木屋役で登場させてのだと聞いています。

どの作品も懐かしいその時の思い出が浮かびます。

作家司馬遼太郎との出会い、そして幕末を駆け抜けた若者達との出会い、
それらを全力で演じた彼らとの出会い、すべてが素敵な思い出であり
今もこれからも続く思い・・・・・。

朴の花と沖田総司・・2009/08/01 00:28

朴の花を見たことがありますか?
朴の木は15mを越える高木で、高い木の上に甘い強い香りのする白色の花を咲かせるそうです。あまり高い所で花を開くので、香りはしてもなかなか見ることが出来ないとか。朴の花の写真を探してみると、モクレンの花に似た大きな花弁を持つ黄白の花でした。
先日こんな俳句に出合いました。
一天に一花を掲げ朴の花 宇多喜代子
朴の花は夏の季語ですが、朴の木が強い香りの花を夏の高い空に咲かせている様子が感じられる句だと思いました。

なぜ朴の花・・・・・
それはこの俳句に出合って、以前読んだ本の一部を思い出したからなのです。
森満喜子著「沖田総司・おもかげ抄<新装版>」
著者は1924(大正13)年生まれのお医者さまで、「沖田総司という幕末の一青年の面影を追って彼の溜息の一つも見逃すまいとの思いで綴った」初稿(昭和40年)に4回目の筆を加えたのがこの新装版で1999年の発行本です。
初稿を読んだ司馬遼太郎氏が「あまり情がこもり過ぎている。もっとエッセイ風に」と指摘をしたほど、彼女の総司への思いが深く「情に流される事なく筆を進める事は至難の業で、ともすれば総司への思いに奔ってゆく筆の流れとの戦いであった。」と「あとがき」にあります。
逆算すると初稿の頃の著者は40歳前後ですが、決して多くはない資料や話を集めてやさしく丁寧に深い思いを込めて青年総司の面影を追った本です。

前置きが長くなりましたが、この本の中に「朴の花・・」が出て来たのです。
著者は沖田総司を花にたとえると「朴の花」ではないかと思うと記述しているのです。
それは、昭和43年6月の朝日新聞「天声人語」を引用して、朴の木の大きさ高い所で初夏の太陽に向かって咲く大きな花、そしてその花の散り行く姿に沖田総司の姿を重ねられた様です。

「いのち短しといえば朴の花がそれだ。葉の茂った上にやや黄色を帯びた大きな花を咲かす。花は枝先でことごとく上を向いて初夏の太陽と向かい合う。この木の若葉は美しい上に香りがよいので朴葉餅を包んだりするが、丈の高い木は長身の青年を見るような気がする。・・・・・ある日、朴の花は突如として散る。無常そのものの散り方だ。・・・あっという間に散って残るは空寂の感である。・・さては風とともに昇天したのであろうか・・・」
(「天声人語」より)

この本が出た頃には、昔総司が歩いた小野路(現在の町田)の街道には朴の木があって初夏には花咲かせているとある。
2009年の夏は、まだそこに朴の花は咲いているのでしょうか。
この「おもかげ抄」を読んで沖田総司を「朴の花」にたとえた記述が強く印象に残っていて、朴の花の咲いている姿を見てみたいし、その散り行く様も見てみたいと思い続けています。