奇々怪々・・2010/08/20 23:30

「奇怪」とは、常識から外れて合点のゆかないこと。けしからぬことの意味。
「奇々怪々」は、「奇怪」を重ねることにによる、常人が常識では理解出来ない非常に不思議なさまを言う。

今日も、そんな奇々怪々なけしからぬニュースが流れている。
「葬式代がないから・・。」と白骨化した104才の母と暮らす64才の息子。
「即身仏」になりたいと部屋に籠もった111才の老人の発見から、
毎日、日本のあちらこちらで、幽霊が出るは出るは!!!
記録的な猛暑で、成仏出来ないで浮遊している方々も我慢出来なくてなって
出てきたかな。
冗談を言っている場合じゃないですね。失礼いたしました。

「何十年も親に会っていない。」
「父は兄弟と一緒に住んでいるんじゃない。」
「昔、家を出たきり・・。」
役所に届けられている住所には、すでに家はなく公園になっていたり、道路予定地だったり、信じられない事実がTVや新聞で次々と出てくる。
こんなにも家族間が疎遠な事がありんだと、常識では理解出来ない。
我家の様に行事のある度に、親類縁者老若男女が集まることが普通じゃない世の中になりつつあると言うことでしょうか。

この「奇怪」な出来事は、あらゆる面で行政の手続き怠慢だと腹立たしく感じています。しかし、「死」に対して人間が鈍感になって、それをないがしろにしている事実は否定できないのではないでしょうか。

宗教思想家山折哲雄氏は、高齢化社会になり、「年齢の延長は、それに見合うだけの幸福をもたらしてくれているのか。」と問いかけ、人は長生きすることにより、「生と死のあいだに病と老いの問題が割り込んできて、我がもの顔に振る舞い・・・、それが今日、年金、医療、介護の問題としてあらたに浮上し、政治も経済も適切な対応策を打てない状況・・云々。我々は今、あらたに割り込んできた病と老いの難問に行く手をはばまれたまま、死に向き合う姿勢をととのえることができないでいる。平均寿命80年という恵まれた環境にありながら、死に支度の覚悟も定まらないままだ。」で、つまりは、生きることは死を受け入れること、死を覚悟する心構えこそが生きる豊かさをもたらすという、「死生観」を見失ってしまったと述べている。

日本人は心のよりどころを見失っていると言われてから久しくなるが、今回のこの奇々怪々の現象は、なかんずく親の「死」への心構えを見失わせ、自分自身の生きる豊かさを持てないまま、死者の年金給付を受給したりする哀しい人生を生きてしまっている人が、こんなに大勢いることに言葉を失ってしまう。
人は、年を重ねると「死」は恐怖ではなくなり、死ぬまでどの様な生き方が出来るかを考え、毎日を一生懸命に生きているのではないでしょうか。
決して高齢化社会全体が「死生観」を見失ったのではないと信じて、奇々怪々の出来事は、猛暑の今年だけにして欲しいとものです。



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