もうひとつの「終わらざる夏」・・2010/09/09 23:18

今夏、作家浅田次郎氏は、昭和20(1945)年8月18日に北千島の孤島で、日本国民が「終戦」の言葉に安堵したであろう玉音放送から3日後に、
「知られざる戦争」があった史実を題材に、小説「終わらざる夏」を発表しました。
先日、TV「週刊ブックレビュー」で浅田次郎氏が、「赤紙一枚で北の果てへ行かされ、ソ連軍の侵攻によって知られざる戦争の悲劇が繰り広げられた史実と、国家と戦争に翻弄された人間を描きたかった。」と話していた。

そんな話を聞いた後だったので、先日のロシアの「第二次大戦終結の」のニュースが特に気になってしまって、9月3日の「昨日の気になったニュース・・」を書きました。

実は、今日、いつも「風花草紙」を読んで下さっているソフトでハモニカさんから、とっても貴重なコメントをいただきました。

コメントを読んで、お父様が、満州においてソ連侵攻により、終戦後の8月18日に戦死されたことを知りました。
そこには、もうつとつの「終わらざる夏」の真実が書かれていました。
お父様の最期の様子が書かれている手紙を読んで、どのような言葉を選んだらよいのか、あまりにも悲惨な戦死だったと胸詰まる思いになりました。
この手紙をコメント欄で公開させていただくよりは、「もうひとつの終わらざる夏」として、出来るだけ多くに方に読んでいただきたく、こちらで公開させていただきす。

・・・以下、ソフトでハモニカさんからのコメント・・・
本題とチョット外れるかも知れませんが、私の父が満州にてこのソ連侵攻で戦死しております。
母が晩年、死を覚悟して遺品をきちんと整理してありました。その中に以下に示す手紙が入っており、これにより私は初めて父の最期を知りました。母は生前この事を一言も言いませんでした。私も聞こうともしませんでした。
同じく遺品の中に未帰還者照合名票と言う1枚の紙片があり、そこには所属部隊名が書かれ、手紙をくれた戦友の証言で20,8.18戦死とあります。発行は昭和25年6月となっていて、基礎資料調査覧には(未了)で「近日公報発令に付き添付せず」と記入されています。
母はこの間父の消息を国に尋ね続けていました。返答は終戦の混乱で判らないだけです。母の執念で5年後戦友が判り、覚悟はしていたとは思いますが「戦死」が判明しました。
1枚の赤紙で終戦直前に国に召され、5年も掛かって1枚の公報で死を宣告される。享年29才! これが戦争です。
以下長文で申し訳ありませんがその手紙を掲載します。

 拝復 御便り拝見しました 唯一途に御主人の御帰りをお待ちせられて居たのに戦死の公報に接せられ 覚悟せられて居たと思いますがご心中如何ばかりかと御察し申し上げます。早速乍ら当時の情況をを申し述べます。
 我が二七三連隊はムーロン・伊林の鉄道線の牡丹江よりいへば左側山中の陣地作業に従事し居り K谷氏とは同一幕舎にて起居を共にいたし 写真も見せてもらい色々面倒もみてもらいました。

八月九日ソ連進入の報に接し佐藤伍長以下の一ヶ小隊と共にK谷氏は派遣せられ、小生は中隊主力と共に主陣地の戦斗配備に付きました。一日交戦翌日小豆山に集結中隊並びに?隊主力と共に牡丹江にむかって行軍しましたが佐藤伍長以下の消息がわかりませんでした。 途中ネイアン戦の一部落で露営中小生他五名斬込隊に出され そのまま部隊・中隊とは別れてしまい翌朝佐藤伍長以下と会ひ以後佐藤伍長を長として朝鮮に行くべく行動お起こしました。
その間三日三晩何も食わず随分落伍せる者もありましたが ようやくその山中もきり抜け夕方食事の為一部落に糧秣使役に山田上等兵以下数名を使役として出されましたが 我々は若干離れて居りましたが 突然銃声がしばし聞こえましたので何事かあったと思うしりから山田上等兵万死に一生を得て生々しき情況を報告しました。

 部落入口にソ軍が居り 何事か手を挙げ示し居ったようでしたが意味がわからず 彼我の距離は五十米位の様でしたが道が低地の上 敵は自動小銃を携え数に置いても多く 彼等は友軍が意味がわからぬまま敵迎撃のかまえで発砲 敵もあわてて応戦 しばし戦闘せる模様なれど先程も申した通り友軍は低位置の不利、武器の劣る為遂に山田上等兵他一名生還以外他は全員戦死した次第であります。
K谷氏も遂にこの戦闘に於いて永久にかえらざる人となられたのです。
 これが小生の知れる概略でありますが これは事実であり なんと申し上げてよいか言葉を知りません。これだけでも納得は行きませんでせうが、充分御くみとり願います。
 当時の関東軍は名のみにて実なく 幹部は逸早く姿なく ほとんどが五日以降の召集兵・現役ばかりでありました。
もしお暇でもありますれば愚宅にお越しになっても結構です 本当にむさ苦しいところですが一夜の宿位はご遠慮なく。小生も空?の為二階借はして居ますが 三ヶ年のシベリア生活をかえりみて毎日元気で働いています。
貴女に於かれましてもお苦しいでせうが、又冷たい世の中ではありますが正しく明るく生き抜かれますようお祈りいたします これが又故K谷氏へのお慰めになると思います。
甚だ乱筆ではありますが失礼します。
                                  
                                橋○◎二
K谷○子殿