野分のあと・・2009/10/03 14:51

野分の跡・・
昨夜遅くに、強風が吹き荒れて・・・、
庭の草花を分けて過ぎ去りました。

今朝 庭に出てみると、2m近く背を伸ばしたコスモスは、
秋の強い風に逆らうことなく、倒されながら、からみ合い、
それでも花を残していました。

陰暦の立春から数えて210日前後に吹く秋の強い風が、吹き抜ける様が野の草を分けて過ぎて行くので、この風を野分、「のわき」又は「のわけ」と呼んでいます。

「源氏物語」にも「野分」の巻があった・・・。
秋の嵐が過ぎた後、夕霧が姫君のもとへ風見舞い訪れる・・。

今晩はお月見、お月様はご機嫌よくお出ましになられるのかしら?
少し雲が多い様です。後でススキを探して来ましょう。

「わが青春の沖田総司」-22009/10/03 20:19

島田順司著「わが青春の沖田総司」のつづきです。
http://kazahana.asablo.jp/blog/2009/09/29/

島田順司さん、「新選組血風録」の沖田役に抜擢されるまでは、
「・・芝居へ出たって、千円以上はもらえない、旅興業で一日・・800円か・・せいぜいそんなものだった。芝居の無い夜、徹夜でガリ版切るんだけど、そんなの高が知れてるし・・。」そんな舞台中心の劇団員が、沖田役に決まっても、
「新劇育ち・・。・・フィルムに自分が写るということに、何のリアリティーも感じなかった・・」新劇育ちの彼は、フィルムの仕事(映画)でご飯が食べて行けるとは考えられなかったと書いています。

「同じ劇団の左右田さんもいくというから、ま、一緒についていけば何とかなると思って、京の都へ出かけることにした。」と、まるで沖田が、近藤さんや土方さんについて京の都へ出かけたのと同じような気持ちが綴られている様な・・。
「子供の頃のチャンバラゴッコが実際の仕事だなんて、ちゃんちゃらおかしいというか、働いているなんてリアリティーは、まったくなかった。」
「それでも、少ないながら、ちゃんとお金はいただけるいし・・、・・当時の僕にとって決して少なくなかった。」
京都の東映の独身寮で左右田さんと寝起きを共にしながら撮影通いをし、初めてのフイルムの仕事、それも時代劇という仕事に戸惑いながら、
「・・・はぁー、映画というものは、こういうふうにして作られていくのか、なるほど・・・と只関心ばかりしていた。」
「・・・自分の芝居をどうするかってことを考える前に、まず珍しいものが一杯あって、なおかつ食べることの心配がないということは、すごくたのしかった。あまり欲もなかったし、・・・気楽なものだった。」
どこか島田さん演じる沖田総司の姿と重なりませんか。

でもそんな島田さんも始めは、
「時代劇というものをやったことがないから、カツラの付け方もわからないし、カオもどうしたらいいのかわからない、殺陣も出来ない、雪駄も・・うまく歩けるわけがない。
着物を着ても馴れていないから、何となく落ち着かない・・落ち着かないとやっていることが単純になる・・自分の殻にとじ籠もる・・食欲がなくなる・・またまたやせる・・。
一番最初は、とにかくひどかった。左右田さんがいたから何かといろいろ心丈夫だったのは事実だ。・・・そうでなければ、もっともっと、しょぼんとした沖田になっていたかもしれない。」
「・・・アフレコ・・口を合わせるなんてどうしていいのかわからない・・・。目線というのがこれまたわからない。」
初めてのカメラに向かっての演技にだんだん気が重くなって来る時期があったとあります。

「菊一文字」については、
「比較的早い時期に撮った写真だけど・・・後から見ても、あまりむだなところに気を使わず、のびのびとやってるんだ、・・・・ボクはあの写真が気に入っている。
後で自分で見ても、そういうところの芝居はすごくいい・・動いているところは。それが、座って菊一文字をじっと見ながらしゃべるってのは、とてもやりにくい・・・。」
「風去りぬ」については、
「これは僕の芝居だ!って、ものすごく張切ったわけだ、・・・・・話だって哀しいし。
ただ待っている、それだけの芝居なのに、よく、あれだけの話が成立したものだあなと、結束さんの台本に感心したり・・・」

「菊一文字」の時は静の演技が苦手だと思っていた島田さんも、「風去りぬ」ではただ静かに「その時を待つ」演技を見事に演じています。どちらも「血風録」全編のなかで一度見たら忘れられない作品です。

何度か沖田を演じた彼は、
「「血風録」「燃えよ剣」の沖田総司は、やっぱり原作のイメージを忠実に再現しようと、一所懸命つくってるところがある・・・それも役者として大事だと思うけど・・「俺は用心棒」は、割と自分の生地みたいなところで楽にやれたような気がする。・・この沖田(用心棒の)の方が、はるかにリラックスして演じてる・・どっちがいいとは、一概に言えないと思うが。」
そして、32年前の著書には
「・・・我々の仕事って、「昔、よかった」と言われたら、ぞっとするもんね、何を演っても、沖田のイメージで触わられているみたいで、どうも落ち着かないものなんだ。「沖田総司」が、まあ、いろいろな意味で評価されたことを、忘れたいと思ったこともあるね、正直言ってネ。」とあります。

司馬遼太郎作品結束信二脚本で映像化された「新選組血風録」に出会って、
歴史小説は、歴史的事実と創作としての物語が混在するものであることは誰でも理解しながらも、結束信二の脚本を通しての映像化が、見る者には、それまで無名に近かった栗塚旭や島田順司たちの演じた土方歳三や沖田総司が、あたかも幕末の時代から生き返ったかの錯覚を与え、それは、演じた彼らのその後の人生にも少なからずも影響を与えたことは間違えがない事実のようです。