総司・・千駄ヶ谷村池尻橋際2009/10/22 00:55

千駄ヶ谷村池尻橋際
10月21日
10月の中を過ぎて秋の気持ちの良い昼下がり、昼休みの散策に出掛けました。
実はちょっと目的があったのです・・・、以前から、一度確認したい場所がありました。
沖田総司の終焉の地です。菊池明氏が著書「沖田総司伝私記」で昭和そして明治の地図・江戸時代の絵図と考察してその最後の場所を特定しているのです。詳しくは上記著書をご覧下さい。
実は、外苑西通りに面したその場所は、いつもなにげに車で通り過ぎている場所で、その周辺を歩く事がないので、一度歩いて見たいと思っていたのです。
今日は昼休みを利用して出掛けてみました。

総司が最後を迎えた場所は、千駄ヶ谷池尻橋の際、植木屋平五郎こと柴田平五郎の離れ座敷で、
「家の周囲は広々とした畑と田畝で、雑木林の森がどっちを向いても青く見えた。藁葺き屋根で、八畳か十畳くらいの座敷、南と東に向いて粗末な縁側がついていて、一日いっぱい障子に陽が当たって時々鳥影がさした。」・・「新選組遺聞」(上記書より転記す)
長閑な場所であったようです。

千駄ヶ谷は、杉浦日向子著「江戸アルキ帖」には、
「千駄ヶ谷は昔、見渡すかぎり萱野原で、一日に千駄(荷の単位・一駄は約350Kg)の萱がとれることから千駄萱(のちにヶ谷)と呼ばれるようになったという。
千駄ヶ谷から原宿村へかけての一帯は、一部の寺社地と武家の小屋敷を除けば、ほとんど田畑と雑木林という田舎じみた土地だ。
江戸は、隅田川と江戸城の両方に近いほど都会で、それから離れるにしたがい鄙びてくる。
日本橋あたりで生まれ育ったものが、ここらへんに三日でも住んだら、あまりの長閑さに、恐怖感さえ覚えるようになるんじゃないかと思う。草深い小道の両側には昼間でも何かの虫の鳴く声がする。」とあります。

「千駄ヶ谷池尻橋の際」という場所は、今では外苑西通りを青山方面から四谷四丁目交差点へ向かい首都高速道路・JRの架橋を過ぎて、大京町の交番手前新宿御苑を左手にその向側当たりをさすようです。

「江戸切絵図・内藤新宿千駄ヶ谷辺図」には、信州高遠藩内藤家の屋敷から南に流れる細い水路があり「橋」と「水車」「植木屋」の文字が書き込まれていて、菊池明氏は、明治45年の「地積台帳」に残る柴田平五郎の名前と地番を「地積地図」で確認し、明治17年の「五千分一東京測量原図」に記載されている平五郎所有地・家屋を特定しています。

その測量原図には、母屋と離れ座敷と推測出来る長方形の建物と正方形の建物が描かれていて、さらに、昭和34年頃の「東京三千分一図」に上記測量原図の縮尺を合わせて、離れ座敷の位置を数メートルの誤差範囲で特定しています。

明治になり高遠藩屋敷は新宿御苑となり今日に至り、絵図にある細い水路跡は外苑西通りを挟んで北側(大京町交番側)は御苑に沿って存在し、南側は子供の遊び場となって残っています。この当たりに水車小屋があったのでしょうか。

慶応4年3月頃に総司は千駄ヶ谷に移り、5月30日に25歳(27歳)の生涯を閉じています。
江戸の外れの長閑な千駄ヶ谷村の慶応4年は、どんな風が吹いていたのでしょうか。
時節柄江戸市中同様に騒がしい風が吹いていたのでしょう。それとも・・・、小川の流れに水車が回り野の花が咲き始め、植木屋の庭は春から初夏への新緑が輝き、鳥の影が障子に映る長閑な風が吹いていた・・・。
そして、沖田総司はこの場所で、京都での騒乱の5年間から解放された安堵感を持ちながらも孤独な終焉の時を迎えたのです。

先の大戦で東京は焼け野原となったので、御苑の大木の中に140年以上の老木があるかどうかは定かではありませんが、もし残っていたら、慶応4年のあの日を知っているのかもしれない・・・・・。

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