碧血碑 ― 2009/05/09 00:32
先日訪れた碧血碑について・・・・・
「碧血碑」は一般には「へっけつひ」とふりがなが振られているが、正式には「へきけつひ」と読み、函館市の案内板の説明には、
「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年大鳥圭介や榎本武揚らの協力を得て、東京から船で運ばれたもので、
碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。・・・」とあった。
碧血とは、「義に殉じた武人の血は三年経つと碧血と化す」と云う中国の故事により、「碧」とは、「あお、みどり、あおみどり色 あおくすんで見える石碧玉 サファイア色」の意味で、節義により死んだ武人の赤い血は碧(みどり)の血となり玉(ギョク)となるとたたえているのである。
函館山の山中に建つ碧血碑への小道の入口で車を降りた時、タクシーの運転手に
「碧血碑の意味はご存知ですね。」と念を押された。
静かな小道をしばらく進むと、数段の階段を登った場所に大きな石碑が、木々に包まれて建っていた。台座部分は2m近くその上部に石組の碑が載っている。
一枚石の碑ではなく石組みの碑であることで、説明版の「東京から船で運ばれた・・」とある意味が理解できた。
石碑には、揮毫者や建立者の名前が通常は記されているが、この碑には名前がなく
碑の裏に意味深長な文字が刻まれていると読んだので碑の裏へ回って見た。
「明治辰巳実有此事 立石山上以表厥志 明治八年五月」
(明治辰巳に実に此事あり 山上に石を立て以て厥志を表す・・)
と風雪によって消されかけた文字が読めた。
明治8年は箱館戦争が終結してまだ6年足らずで、反政府の戦没者を慰霊することは
憚りがあったために、揮毫者や建立者の記載がどこにもないのは納得いくところである。
五稜郭政権の閣僚でただ一人戦死した土方歳三そして戊辰戦争の東軍戦死者800余人の慰霊の為の碑建立であり、榎本武揚は、
「碧血碑ハ、数ノ戦死者アル中ニテ、尤モ土方君ニ重キヲ置キ、・・・土方君ノ為ニ建テタ者ト云ッテモ、差支エナシ」と語っている。
さて、一本木関門で銃弾に倒れた土方歳三は何処に葬られたのか、
・ 明治12年に碧血碑の中に改葬
・ 碧血碑の後ろの大石の下
・ 碧血碑周辺の地面の下
その他諸説があるようだが定かではないとある。
碑の台座部分の観音開きの扉の中には、それらしきものは納められていないそうだ。
しかしもし、この周辺に埋葬されその事実を榎本武揚が知っていたとすれば、この場所が選定された事に、なにかの関わりがあるのではないかとの思いに周囲を見回し、
芽吹き始めた木々の間からの陽の光が、土の中の命を呼び起こし、白いイチゲの小花や紫のエゾエンゴサクを咲かせ、静寂が心に残り、この場所をあとにした。
参考文献 好川之範著 「箱館戦争全史」
「碧血碑」は一般には「へっけつひ」とふりがなが振られているが、正式には「へきけつひ」と読み、函館市の案内板の説明には、
「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年大鳥圭介や榎本武揚らの協力を得て、東京から船で運ばれたもので、
碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。・・・」とあった。
碧血とは、「義に殉じた武人の血は三年経つと碧血と化す」と云う中国の故事により、「碧」とは、「あお、みどり、あおみどり色 あおくすんで見える石碧玉 サファイア色」の意味で、節義により死んだ武人の赤い血は碧(みどり)の血となり玉(ギョク)となるとたたえているのである。
函館山の山中に建つ碧血碑への小道の入口で車を降りた時、タクシーの運転手に
「碧血碑の意味はご存知ですね。」と念を押された。
静かな小道をしばらく進むと、数段の階段を登った場所に大きな石碑が、木々に包まれて建っていた。台座部分は2m近くその上部に石組の碑が載っている。
一枚石の碑ではなく石組みの碑であることで、説明版の「東京から船で運ばれた・・」とある意味が理解できた。
石碑には、揮毫者や建立者の名前が通常は記されているが、この碑には名前がなく
碑の裏に意味深長な文字が刻まれていると読んだので碑の裏へ回って見た。
「明治辰巳実有此事 立石山上以表厥志 明治八年五月」
(明治辰巳に実に此事あり 山上に石を立て以て厥志を表す・・)
と風雪によって消されかけた文字が読めた。
明治8年は箱館戦争が終結してまだ6年足らずで、反政府の戦没者を慰霊することは
憚りがあったために、揮毫者や建立者の記載がどこにもないのは納得いくところである。
五稜郭政権の閣僚でただ一人戦死した土方歳三そして戊辰戦争の東軍戦死者800余人の慰霊の為の碑建立であり、榎本武揚は、
「碧血碑ハ、数ノ戦死者アル中ニテ、尤モ土方君ニ重キヲ置キ、・・・土方君ノ為ニ建テタ者ト云ッテモ、差支エナシ」と語っている。
さて、一本木関門で銃弾に倒れた土方歳三は何処に葬られたのか、
・ 明治12年に碧血碑の中に改葬
・ 碧血碑の後ろの大石の下
・ 碧血碑周辺の地面の下
その他諸説があるようだが定かではないとある。
碑の台座部分の観音開きの扉の中には、それらしきものは納められていないそうだ。
しかしもし、この周辺に埋葬されその事実を榎本武揚が知っていたとすれば、この場所が選定された事に、なにかの関わりがあるのではないかとの思いに周囲を見回し、
芽吹き始めた木々の間からの陽の光が、土の中の命を呼び起こし、白いイチゲの小花や紫のエゾエンゴサクを咲かせ、静寂が心に残り、この場所をあとにした。
参考文献 好川之範著 「箱館戦争全史」
土方歳三最期の地 ― 2009/05/02 22:07
函館最後の昨日は・・・
朝市へ・・・早起きは得意な方ではないので、早朝ではなく遅い朝の時間に出かけて、名物海鮮丼を・・朝から丼ご飯を食べてしまいました。いつもは朝からこんなにご飯を食べないのに美味しく全部食べてしまい、メカブ酢も新鮮なメカブと程いい酢加減がおいしかったです。
市場では近郊農家の取れたて野菜が並んでいて、その中でホワイトアスパラを買って来ました。
あとはほたての貝柱と干しシシャモを買いました。シシャモは寒の時期に干したものでそのまま食べてもいい味がします。
さて、朝市を歩いたあと最後までとっておいた場所へ向かいました・・・・・
函館駅から歩いて5~6分の所・・「土方歳三最期の地碑」へ・・
八幡通りというかなり道幅のある通りに面して、総合福祉センターの前の綺麗に整えられた若松緑地公園の一隅に「最期の地碑」がありました。
八幡通りの中央分離帯のグリーンベルトは幅3mほどあり、この幅がもともとの道幅だったとか・・
つまり今、道路の中央が正確に土方歳三最期の地であるならば、現在の中央分離帯となっている場所が、一本木関門であり35歳の生涯を閉じた場所ということになる訳です。
道幅のわりには車の少ない割合静かな通りで、近所の女性が道路中央の緑地帯を犬と散歩していました。(決してそこは散歩コースではないのですが・・)
最期の地はお線香の香りが絶える事がないと読みましたが、私が訪れた時もお線香の香りが漂い最期の地を訪れた実感を生じさせ、私もお線香に火をつけ手を合わせてきました。
その後、「碧血碑」へ向かいました。
「碧血碑(へきけつひ)」は、榎本武揚らが明治8年に函館山の山中に五稜郭政権の戦士者を弔う為に建立したかなり大きい碑で、諸説がありますが土方の骨を埋葬したとの説もある場所です。
詳しく後日書きたいと思います・・
碑への道は、静かな山の小道で両脇には春を待っていたオニゼンマイや山野の小花が咲き山桜が花を付け木々の若芽が芽吹いていました。
そんな森の道を進むと大きな慰霊碑がひっそりと建っていました。
明治8年はまだ彼らを慰霊することは憚られたのでこの山の中が選ばれたのだろう・・、慰霊されている者慰霊した者の思いをこの静寂が、今でも見守っている様に思える場所です。
しばらくそこにたたずんでいたら、旅行者らしい女性が現れ持参したお線香に火をつけ手を合わせて去って行きました。彼女もまたある思いを持ってここを訪れたのでしょう・・
仕事の関係で急遽決まった函館の旅でしたが、土蔵や歴史的建築物が多く残る150年前の開港都市函館の姿を感じとり、期せずして土方歳三の最後の戦いと最期の地を訪ねることが出来た旅でした。
朝市へ・・・早起きは得意な方ではないので、早朝ではなく遅い朝の時間に出かけて、名物海鮮丼を・・朝から丼ご飯を食べてしまいました。いつもは朝からこんなにご飯を食べないのに美味しく全部食べてしまい、メカブ酢も新鮮なメカブと程いい酢加減がおいしかったです。
市場では近郊農家の取れたて野菜が並んでいて、その中でホワイトアスパラを買って来ました。
あとはほたての貝柱と干しシシャモを買いました。シシャモは寒の時期に干したものでそのまま食べてもいい味がします。
さて、朝市を歩いたあと最後までとっておいた場所へ向かいました・・・・・
函館駅から歩いて5~6分の所・・「土方歳三最期の地碑」へ・・
八幡通りというかなり道幅のある通りに面して、総合福祉センターの前の綺麗に整えられた若松緑地公園の一隅に「最期の地碑」がありました。
八幡通りの中央分離帯のグリーンベルトは幅3mほどあり、この幅がもともとの道幅だったとか・・
つまり今、道路の中央が正確に土方歳三最期の地であるならば、現在の中央分離帯となっている場所が、一本木関門であり35歳の生涯を閉じた場所ということになる訳です。
道幅のわりには車の少ない割合静かな通りで、近所の女性が道路中央の緑地帯を犬と散歩していました。(決してそこは散歩コースではないのですが・・)
最期の地はお線香の香りが絶える事がないと読みましたが、私が訪れた時もお線香の香りが漂い最期の地を訪れた実感を生じさせ、私もお線香に火をつけ手を合わせてきました。
その後、「碧血碑」へ向かいました。
「碧血碑(へきけつひ)」は、榎本武揚らが明治8年に函館山の山中に五稜郭政権の戦士者を弔う為に建立したかなり大きい碑で、諸説がありますが土方の骨を埋葬したとの説もある場所です。
詳しく後日書きたいと思います・・
碑への道は、静かな山の小道で両脇には春を待っていたオニゼンマイや山野の小花が咲き山桜が花を付け木々の若芽が芽吹いていました。
そんな森の道を進むと大きな慰霊碑がひっそりと建っていました。
明治8年はまだ彼らを慰霊することは憚られたのでこの山の中が選ばれたのだろう・・、慰霊されている者慰霊した者の思いをこの静寂が、今でも見守っている様に思える場所です。
しばらくそこにたたずんでいたら、旅行者らしい女性が現れ持参したお線香に火をつけ手を合わせて去って行きました。彼女もまたある思いを持ってここを訪れたのでしょう・・
仕事の関係で急遽決まった函館の旅でしたが、土蔵や歴史的建築物が多く残る150年前の開港都市函館の姿を感じとり、期せずして土方歳三の最後の戦いと最期の地を訪ねることが出来た旅でした。
北での思い ― 2009/04/29 23:14
本日9時過ぎ函館上陸・・
函館空港より今回の目的地松前まで車で、途中休憩を入れて約2時間でした。
140年前箱館から松前城攻略の為 土方歳三率いる700余名の上陸軍が
木古内・知内・・を行軍した箱館湾岸を車で走る。
数日前は雪だった道南も今日は天気がよく、津軽海峡の海は光輝くのどかな
水仙の花咲くのどかな海岸線の国道でした。
新選組副長から陸軍士官と姿を変えた土方歳三はどのような思いで
冬の行軍をしたのか想像しながら車から春の海を眺めていました。
松前は北前船で栄えた日本で最北端の城下です。
松前の桜を期待していたのですが 案内をして下さった副町長の松尾さんのお話では、今年の2月は暖かく早咲きの桜が蕾をつけたところへウソ鳥が飛来して蕾をついばんでしまったとかで、今咲いているべき早咲きの桜は無惨にも花を咲かせる事が出来ずにいるそうです。松尾さんも初めての出来事だとか・・
ここで目的の北鴎碑林を案内して頂き、これから取り掛かる仕事への「思い」を深くしました。
さて、今回どうしても行きたかった江差へ・・約1時間・・
松前で思わぬ時間を過ごしてしまったので、江差へ急ぎました。
でもどうしても開陽に会いたいのです・・・・・
終焉まじかな徳川幕府がオランダへ発注し、蘭国ドルトレヒト市の造船所
で生まれ長い航海を経て幕末の日本へ姿を現した開陽丸が復元されているのです。
オランダ留学をした当時の若者の思いと夢を運んだこの軍艦は、幕末の渦のなかで座礁して北の海の底で静かに眠っています。
開陽に乗船した榎本・土方・大鳥・高松凌雲・・・のそれぞれの夢や思いはいかばかりであったのか・・・それにもまして、短い船籍を閉じた開陽の思いが
悲しいほどに胸を締めつけます・・。
夜は函館の港や遠くに五稜郭タワーの灯を見ながら・・・・・
明日 函館山へ・・五稜郭の桜は最終日の方がいいようです・・
函館空港より今回の目的地松前まで車で、途中休憩を入れて約2時間でした。
140年前箱館から松前城攻略の為 土方歳三率いる700余名の上陸軍が
木古内・知内・・を行軍した箱館湾岸を車で走る。
数日前は雪だった道南も今日は天気がよく、津軽海峡の海は光輝くのどかな
水仙の花咲くのどかな海岸線の国道でした。
新選組副長から陸軍士官と姿を変えた土方歳三はどのような思いで
冬の行軍をしたのか想像しながら車から春の海を眺めていました。
松前は北前船で栄えた日本で最北端の城下です。
松前の桜を期待していたのですが 案内をして下さった副町長の松尾さんのお話では、今年の2月は暖かく早咲きの桜が蕾をつけたところへウソ鳥が飛来して蕾をついばんでしまったとかで、今咲いているべき早咲きの桜は無惨にも花を咲かせる事が出来ずにいるそうです。松尾さんも初めての出来事だとか・・
ここで目的の北鴎碑林を案内して頂き、これから取り掛かる仕事への「思い」を深くしました。
さて、今回どうしても行きたかった江差へ・・約1時間・・
松前で思わぬ時間を過ごしてしまったので、江差へ急ぎました。
でもどうしても開陽に会いたいのです・・・・・
終焉まじかな徳川幕府がオランダへ発注し、蘭国ドルトレヒト市の造船所
で生まれ長い航海を経て幕末の日本へ姿を現した開陽丸が復元されているのです。
オランダ留学をした当時の若者の思いと夢を運んだこの軍艦は、幕末の渦のなかで座礁して北の海の底で静かに眠っています。
開陽に乗船した榎本・土方・大鳥・高松凌雲・・・のそれぞれの夢や思いはいかばかりであったのか・・・それにもまして、短い船籍を閉じた開陽の思いが
悲しいほどに胸を締めつけます・・。
夜は函館の港や遠くに五稜郭タワーの灯を見ながら・・・・・
明日 函館山へ・・五稜郭の桜は最終日の方がいいようです・・
松前そして箱館へ・・ ― 2009/04/28 22:06
先日信州佐久の望月へ出掛けた用事の続きで明日は北海道松前へ出掛けることになりました。
ある書道家の方から望月の地へ作品を収蔵する蔵の相談を受けたので、その方のルーツである松前の土地を急きょ訪ねることになったのです。
数日前の北海道は低気圧の影響で雪が降っていましが、桜も咲き始めたようなので
もう一度咲き始めの桜が楽しめそうです・・。
でも、もうひとつ楽しみがあります。
実は、松前の後函館へ行くことにしました。
戊辰戦争最後の地箱館へはまだ一度も行っていなかったので、
行きたいと思っていたので・・・。
江差で、オランダから幕末の日本へ航海しそしてこの北の海で座礁し沈んだ開陽の姿を見たいし・・・
箱館で蘭国で肌で感じて来た国家を夢見た榎本武揚や、一途に己の義のために戦い続けた土方歳三の思いを・・・・・感じられたらと・・
そして、美味しいものも食べてきます・・
ある書道家の方から望月の地へ作品を収蔵する蔵の相談を受けたので、その方のルーツである松前の土地を急きょ訪ねることになったのです。
数日前の北海道は低気圧の影響で雪が降っていましが、桜も咲き始めたようなので
もう一度咲き始めの桜が楽しめそうです・・。
でも、もうひとつ楽しみがあります。
実は、松前の後函館へ行くことにしました。
戊辰戦争最後の地箱館へはまだ一度も行っていなかったので、
行きたいと思っていたので・・・。
江差で、オランダから幕末の日本へ航海しそしてこの北の海で座礁し沈んだ開陽の姿を見たいし・・・
箱館で蘭国で肌で感じて来た国家を夢見た榎本武揚や、一途に己の義のために戦い続けた土方歳三の思いを・・・・・感じられたらと・・
そして、美味しいものも食べてきます・・
家族旅行・・・伏見・・・ ― 2009/04/10 22:02
4月3日からの2泊3日は一家総出7人での大移動…
この大移動の主旨は ハハの喜寿のお祝いに姪達の春休みを利用して
家族旅行をプレゼントする事
京都で新幹線をおりて、「ご一行様」の旗が必要だったかなと…
「ご一行様」が一台で移動出来るようにハイエスータイプのハイヤーを手配済みで、
八条口改札でMKさんのお出迎えを受け、
まずは「商売繁盛」を祈願している伏見のお稲荷さんへ…
今後の事業の安泰をお願いしてお神楽をあげて…
黄桜酒造のカッパカントリーで昼食
庭にカッパのオブジェと、白に薄黄色のかかった蕾をつけた
「黄桜」と札の付いた桜の木があり、
漫画家清水昆さんのカッパの絵と「カッパパァ~」の唄が懐かしかった~
歴女の私としては、ここで幕末にタイムスリップしたかったのですが、
今回は「ご一行様」のツアーコンの任にあったので断念!
でも、車窓から「竹田街道」「墨染」の文字を見つけて、
近藤さんの襲撃された場所は?
御香宮神社の横を走りながら、
ここから西軍(官軍ではない)が伏見の奉行所に砲弾の雨を降らせた……
再建?で話題を提供した龍馬暗殺の寺田屋の前を走り
観月橋の架かった宇治川を渡り
三十石舟の船着き場を見ながら、平等院へ…
川岸の桜が満開だったことは言うまでもなく…
車窓から駆け足で伏見の街を眺め 土方・沖田・斉藤さんが
龍馬が通り過ぎていった伏見を少しだけ感じとり・・・
幕末の若者達は此処を疾風の如く駆け抜けていってしまったが、
私はいつか ゆっくりと自分の脚で巡ってみよう…
と思いつつ・・・ 次ぎへ・・・
この大移動の主旨は ハハの喜寿のお祝いに姪達の春休みを利用して
家族旅行をプレゼントする事
京都で新幹線をおりて、「ご一行様」の旗が必要だったかなと…
「ご一行様」が一台で移動出来るようにハイエスータイプのハイヤーを手配済みで、
八条口改札でMKさんのお出迎えを受け、
まずは「商売繁盛」を祈願している伏見のお稲荷さんへ…
今後の事業の安泰をお願いしてお神楽をあげて…
黄桜酒造のカッパカントリーで昼食
庭にカッパのオブジェと、白に薄黄色のかかった蕾をつけた
「黄桜」と札の付いた桜の木があり、
漫画家清水昆さんのカッパの絵と「カッパパァ~」の唄が懐かしかった~
歴女の私としては、ここで幕末にタイムスリップしたかったのですが、
今回は「ご一行様」のツアーコンの任にあったので断念!
でも、車窓から「竹田街道」「墨染」の文字を見つけて、
近藤さんの襲撃された場所は?
御香宮神社の横を走りながら、
ここから西軍(官軍ではない)が伏見の奉行所に砲弾の雨を降らせた……
再建?で話題を提供した龍馬暗殺の寺田屋の前を走り
観月橋の架かった宇治川を渡り
三十石舟の船着き場を見ながら、平等院へ…
川岸の桜が満開だったことは言うまでもなく…
車窓から駆け足で伏見の街を眺め 土方・沖田・斉藤さんが
龍馬が通り過ぎていった伏見を少しだけ感じとり・・・
幕末の若者達は此処を疾風の如く駆け抜けていってしまったが、
私はいつか ゆっくりと自分の脚で巡ってみよう…
と思いつつ・・・ 次ぎへ・・・
最近のコメント