「その名は蔦屋重三郎」展へ・・ ― 2010/12/17 21:11
今年もあと15日足らず・・・。昨日何で、東京ミッドタウンへでかけたか・・・。
サントリー美術館の「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展へ出かけました。
先月、ラジオで「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展の話を聞いて、とっても興味がわいて、でも、忙しさに忘れていたのですが、先日ポスターが目に留まり、「そうだ!19日までだ!」と。。。忙しさも省みず・・・行って来ました。
日本が世界に誇る江戸文化をプロデュースした蔦屋重三郎なる人物って、どんな人なのか興味を持ったので、急ぎ足で展示を鑑賞して来ました。
サントリー美術館の「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展へ出かけました。
先月、ラジオで「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展の話を聞いて、とっても興味がわいて、でも、忙しさに忘れていたのですが、先日ポスターが目に留まり、「そうだ!19日までだ!」と。。。忙しさも省みず・・・行って来ました。
日本が世界に誇る江戸文化をプロデュースした蔦屋重三郎なる人物って、どんな人なのか興味を持ったので、急ぎ足で展示を鑑賞して来ました。
「その名は蔦屋重三郎」の図録のはじめに、次の様に蔦屋重三郎の紹介が書かれています。
18世紀後半、安永・天明・寛政期の江戸には、浮世絵の喜多川歌麿・東洲斎写楽、
戯作の山東京伝、狂歌の大田南畝といった江戸文化を彩る花形スターが登場します。このスターたちの作品を巧みに売り出し、江戸文化の最先端を演出・創造したのが、版元の「蔦重」こと蔦屋重三郎でした。・・・さらに、新人発掘に力を注ぐ名白楽でもあり、
歌麿や写楽を始め、葛飾北斎や十返舎一九、曲亭馬琴など、無名時代に「蔦重」に
才能を見出された逸材は少なくありません。
彼は、江戸吉原生まれで、吉原の大門前の五十間道に「耕書堂」を開き本を商っていた。そして、「吉原細見」という今で言うと「るるぶ 一目でわかる吉原」の様なガイドブックを編集出版していた。「吉原細見」を見ると、両側に並ぶ店の名前が羅列されていて、当時の人たちが「どの店へ・・」なんてコレを眺めていたのでしょうかね。
蔦屋は、本屋の商いだけではなく、当時の多くの逸材を見出し版元として出版事業にも
乗り出し、それを成功させた人物です。
浮世絵でよく目にする役者の顔がクローズアップされた役者絵・・大首絵・・を写楽に描かせて、それを版元として世に売り出したのは蔦重だったそうです。
彼は、浮世絵や戯作本などをプロデュースして、前の元禄時代に開花した華やかな文化を見事に成熟させて、「通」や「粋」と言われる江戸文化を確かなものに育て上げた
仕掛け人だったと、初めて知りました。
彼が育てた江戸文化は、その後ヨーロッパの芸術に大きな影響を与えた事は良く知られた事実ですが、今回蔦重の世界を覗いてみて、あまり身近に感じ無かった歌麿や写楽の浮世絵の世界が、こんなふうに生み出された事を知って、少し身近なものに思えて来ました。
蔦重は48歳で病死したとありますが、まあ、あまり節制した生活をしていたとは思えませんからね。
でも、長生きしていたら、江戸の文化がどんな風になっていたでしょう・・・。
もっと新しい文化が生まれていたかも・・。
最後に、「TUTAYA」と蔦屋は関係くて、蔦重にあやかりたいと付けた名前だそうです。
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