続・もうひとつの「終わらざる夏」・・2010/09/10 20:57

昨日紹介させていただいたソフトでハモニカさんから、お母様の遺品の中にあったお父様の最期が書かれた手紙と、その戦友の方の証言で昭和20年8月18日の戦死が記載された「未帰還者照合名票」の画像が届きました。

手紙には、8月9日のソ連軍侵攻から、お父様が戦死しれた18日までの様子が、便箋にぎっしりと書き込まれています。
今の私にはこの手紙の文字を読む事が出来ませんが、書かれた橋○◎二さんは、忘れようとしても忘れる事の出来ない辛い出来事を、残された遺族に伝えなくてはとの思いで、一気に書かれた様に思えます。
そして、もしかしたらシベリアで生きているのではと思っておられたのかもしれないソフトでハモニカさんのお母様は、この手紙でご主人の最期の様子を知り、新たな悲しみに包まれたことでしょう。
手紙

紙1枚で召集され紙1枚に「20.8.18 戦死」と記されて、すべてが終わる。
なんと人格を無視した、国家の振る舞いでしょうか。
当時の婦人は、「赤紙」と戦死の公報をどんなにか恨めしく思ったことでしょう。
未帰還者照合名票

本日、ソフトでハモニカさんから下記のコメントをいただきましたので、再びここで紹介させていただきますね。
これを読んでくださった若い方が、すこしでも戦争の惨さ・悲しみを感じてくだされば、ソフトでハモニカさんのご両親への回向にもなるかと思います。

前文に書きました「基礎資料調査覧には(未了)で「近日公報発令に付き・・」」とありますが、母の遺品の中に戦死公報がありません。結局政府は出さなかったのか、母があまりの悔しさに破り捨てたのか今となっては確かめる術がありません。
 父が出征した日にちは戦友の手紙にありますように8月5日招集組だったと思います。その時私は5ヶ月。父母にとって幸せの絶頂ではなかったでしょうか。
既に敗色濃厚。終戦を考え始めていた時、前線を後退縮小させた関東軍の穴埋めに赤紙を出したのです。
その後、私を抱えた母の逃避行は凄惨でした。ショックで母乳が出なくなり行く先々でミルクを手に入れる為、父が残していったお金は瞬く間に底を突きました。幾ら書いても切りがない。もう止めましょう。
でもこれだけは。
本土に帰還しても父の生死が判明しない(終戦直後の部隊行動さえ分からないと、調査する気もない国)為5年間何の補償もされなかった。
だから母は結核を発病しても昼も夜も働いた。毎日の食と治療費の為に。
でもものは考えよう。南方で戦った兵士は飢餓と病疫で死んでいった。何時何処ともわからずに。
私達は戦友の証言で間接的でも父の最期を知ることが出来た。感謝しようと思
います

この記事のカテゴリーを「歴史」とするには、まだ65年前の出来事であまりにも身近すぎると痛感しています。