復原建築・・平城京1300年記念祭・・2010/07/09 22:45

先日、「復原 祭りの後の役割は・・」というタイトルで、
平城宮跡に復原された、大極殿(だいごくでん)と朱雀門
についての記事が目に留まりました。

平城遷都1300年祭のシンボルとなっている大極殿と朱雀門について、
これらの復原された建物が、遷都記念祭の終わったあとに存在する
価値と意義について書いた記事です。
(日本経済新聞 7/1 京都工芸繊維大教授中川理・建築史)

昨年春に、西大寺を通った時に、建築中の大極殿を車窓から見ました。
平城宮跡の発掘調査は、長い時間の中で積み重ねられてきたことは、
幾たびも奈良を訪れた風景の記憶のなかに残っています。
朱雀門の建築については、発掘調査から「5間3門」の平面形態は
断定出来たが、それ以上の上部斯架構については、
現存する奈良時代建築から推測を重ねなくてはならなかったと
記載されています。(文化財建築物保存技術協会H.Pより)


記事には、復原事業で建築される歴史的建築物の上層部については、
「いくら厳密に考証を重ねても多くの部分が推定とならざるえない。
・・・極端に言えば歴史をねつ造するようなことになるのではないか。」
と、一部の研究者の批判を紹介している。

復原された歴史的構築物が、すべて正しく再現されているとは思わない。
専門家が同じ資料で考証しても、いく通りかの推測がなされるのだから、
決してそれを歴史のねつ造だと批判するのは、行き過ぎな意見だと
言えないだろうか。
ただし、安易に歴史的構築物を、復原すべきではないが。

記事では、明治28年(1895)平安遷都1100年祭の時に、
平安神宮の社殿が、平安宮の大極殿・応天門の復原建築として
再現された事実と、今回の平城宮の再現を比較している。

「復原建築は、記念建築としてお披露目された限りにおいては、
多くの推定の上に成り立つ建築でも価値を持つということになるだろう。」と、
復原建築を認めながらも、現代は、復原建物に永続的な価値を見出すことが
困難な時代で、博覧会のパビリオン的性格との違いを説明するのが
難しく、この再現された歴史的な構築物の記念祭の後の存在価値を
心配している。

明治28年の京都は、幕末の戦火と東京遷都による古都の荒廃を
乗り越えるために、平安遷都1100年祭が大きな役割を果たしたのである。
現在の平安神宮の社殿である平安宮の大極殿をそして応天門の復原を行い、
内国勧業博覧会を開催し、平安遷都1100年祭を契機にして歴史都市の存在を
内外に認めさせた。
復原された建築物は、115年後の今でも、多くの観光客を招致しその存在を示している。

パリ博覧会時のエフェル塔は、復原建築ではないが、今は歴史的な存在意義を持つ
建築である。
つまり、平城宮の大規模建築の存在意義は、今後の生かし方しだいだと言える。
平城宮跡がもっともっと評価されるように願っている。

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