土方歳三最期の地2009/05/02 22:07

碧血碑への道
函館最後の昨日は・・・
朝市へ・・・早起きは得意な方ではないので、早朝ではなく遅い朝の時間に出かけて、名物海鮮丼を・・朝から丼ご飯を食べてしまいました。いつもは朝からこんなにご飯を食べないのに美味しく全部食べてしまい、メカブ酢も新鮮なメカブと程いい酢加減がおいしかったです。
市場では近郊農家の取れたて野菜が並んでいて、その中でホワイトアスパラを買って来ました。
あとはほたての貝柱と干しシシャモを買いました。シシャモは寒の時期に干したものでそのまま食べてもいい味がします。

さて、朝市を歩いたあと最後までとっておいた場所へ向かいました・・・・・
函館駅から歩いて5~6分の所・・「土方歳三最期の地碑」へ・・
八幡通りというかなり道幅のある通りに面して、総合福祉センターの前の綺麗に整えられた若松緑地公園の一隅に「最期の地碑」がありました。
八幡通りの中央分離帯のグリーンベルトは幅3mほどあり、この幅がもともとの道幅だったとか・・
つまり今、道路の中央が正確に土方歳三最期の地であるならば、現在の中央分離帯となっている場所が、一本木関門であり35歳の生涯を閉じた場所ということになる訳です。
道幅のわりには車の少ない割合静かな通りで、近所の女性が道路中央の緑地帯を犬と散歩していました。(決してそこは散歩コースではないのですが・・)
最期の地はお線香の香りが絶える事がないと読みましたが、私が訪れた時もお線香の香りが漂い最期の地を訪れた実感を生じさせ、私もお線香に火をつけ手を合わせてきました。

その後、「碧血碑」へ向かいました。
「碧血碑(へきけつひ)」は、榎本武揚らが明治8年に函館山の山中に五稜郭政権の戦士者を弔う為に建立したかなり大きい碑で、諸説がありますが土方の骨を埋葬したとの説もある場所です。
詳しく後日書きたいと思います・・
碑への道は、静かな山の小道で両脇には春を待っていたオニゼンマイや山野の小花が咲き山桜が花を付け木々の若芽が芽吹いていました。
そんな森の道を進むと大きな慰霊碑がひっそりと建っていました。

明治8年はまだ彼らを慰霊することは憚られたのでこの山の中が選ばれたのだろう・・、慰霊されている者慰霊した者の思いをこの静寂が、今でも見守っている様に思える場所です。
しばらくそこにたたずんでいたら、旅行者らしい女性が現れ持参したお線香に火をつけ手を合わせて去って行きました。彼女もまたある思いを持ってここを訪れたのでしょう・・

仕事の関係で急遽決まった函館の旅でしたが、土蔵や歴史的建築物が多く残る150年前の開港都市函館の姿を感じとり、期せずして土方歳三の最後の戦いと最期の地を訪ねることが出来た旅でした。

リオサンバ2009/05/02 23:10

リオサンバ咲く
函館から帰ってきたら 早咲きのバラ「リオサンバ」が
咲いていました。

黄にダイダイ色の縁取りでグラデーションされた綺麗な薔薇です。

竹の子すくすく育つ2009/05/04 14:30

竹の子すくすく・・
小さな竹林のなかから、竹がこんない伸びました。

10年程前は、せっせと筍堀をして楽しみましたが、
今では、ご近所から上手に茹で上げた筍を頂戴するので、
今はごらんの通り伸びたいだけ伸ばしています・・。
そして、古くなった竹を切り常に竹林を若返らせています。

ご近所から頂く筍は、外で大きな釜で薪をくべて茹でたものなので、
アクガ上手に抜けていて本当に美味しいです。

もう何度も、筍ご飯や新鮮なわかめとの和え物などなどで
春の味を存分に食しました。

伸びた若い竹は、下の方から徐々に茶色い皮を脱ぎ捨てて
綺麗な若緑の竹の姿を見せます。

皐月は芽吹いた生命が活き活きと成長し希望に満ちた時・・。

菖蒲湯2009/05/05 21:07

菖蒲湯
本日5月5日端午の節句は菖蒲をお風呂に浮かせる菖蒲湯です。

古来から菖蒲は厄除けの効用があるとされていて、
祖母が生きていた頃は軒の瓦に菖蒲の葉と蓬の葉を差し込んで
厄除けをしたことを思い出します。
そして無病息災を祈って菖蒲をお湯に浮かせ、
長い菖蒲の葉で鉢巻をしたりして・・。

庶民の菖蒲湯の習慣は江戸の銭湯から始まったとか・・。
菖蒲が「勝負」「尚武」に繋がり、武運長久丈夫な男子が育つようにと
端午の節句の行事になったとか。

菖蒲湯に使う菖蒲はサトイモ科の多年草で、アヤメ科である花菖蒲とは違うと云う事をはじめて知りました。
今まで花菖蒲の葉かと思っていました・・。

今晩は勝負じゃなくて菖蒲のお湯でゆっくりと温まり、肩こりでもほぐして・・・
あとわずかな休日をゆっくり過ごす事にしましょう・・・。

薔薇の様子は・・2009/05/06 18:49

ブルームーン
GWの終盤、連日雨模様です。

週末の庭を「海のガーデン」と名づける事にしました。

海を見下ろし、目の前はみかん畑で西側の崖から吹き上げてくる
風はとてつもなく強いけど・・・・・、
晴天の日は、伊豆半島と真鶴半島に囲まれた海は、
すばらしい借景となります。

さて、天気が良ければもう少し薔薇も開花したでしょうに・・・

植えて9年になる香りの強い薄紫のブルームーンは、
あと数日で沢山の花を開くと思います。

テディベア2009/05/06 19:10

雨のテディベア
テディベアが雨のなかで咲いています。

れんが色の小ぶりなテディベアです・・・

結構この色の薔薇は好きです。

雨のしずく2009/05/07 21:47

アンジェラ
まだまだ花数が少ないアンジェラ・・・
雨に打たれてうつむき加減に・・・

一雨ごとに葉の緑が輝いてきます

怒ってるの・・・2009/05/07 22:45

怒ってるの・・
「何か怒っているの・・・?」

「何でもないよ~だ。
さっきからパソコンばかりいじっていて
私の事 無視してない!

ず~と雨で散歩に行けないし・・。

自分だけ食後のデザートでアイスクリームを食べて!
夕食はダイエットだって言って ドックフードを42gだけ!
おやつが欲しいって催促してもくれないし・・・。

そのうち困らせちゃうもんね・・・・・。」

「雨で散歩に行けないのは可哀想だけど・・
しかたがないわョ・・
明日の朝晴れていたら散歩に連れて行くから我慢して・・
さあ、ベットへ行って寝ましょう。」

碧血碑2009/05/09 00:32

函館 碧血碑
先日訪れた碧血碑について・・・・・

「碧血碑」は一般には「へっけつひ」とふりがなが振られているが、正式には「へきけつひ」と読み、函館市の案内板の説明には、
「箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を弔っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年大鳥圭介や榎本武揚らの協力を得て、東京から船で運ばれたもので、
碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。・・・」とあった。

碧血とは、「義に殉じた武人の血は三年経つと碧血と化す」と云う中国の故事により、「碧」とは、「あお、みどり、あおみどり色 あおくすんで見える石碧玉 サファイア色」の意味で、節義により死んだ武人の赤い血は碧(みどり)の血となり玉(ギョク)となるとたたえているのである。

函館山の山中に建つ碧血碑への小道の入口で車を降りた時、タクシーの運転手に
「碧血碑の意味はご存知ですね。」と念を押された。

静かな小道をしばらく進むと、数段の階段を登った場所に大きな石碑が、木々に包まれて建っていた。台座部分は2m近くその上部に石組の碑が載っている。
一枚石の碑ではなく石組みの碑であることで、説明版の「東京から船で運ばれた・・」とある意味が理解できた。

石碑には、揮毫者や建立者の名前が通常は記されているが、この碑には名前がなく
碑の裏に意味深長な文字が刻まれていると読んだので碑の裏へ回って見た。

「明治辰巳実有此事 立石山上以表厥志 明治八年五月」
(明治辰巳に実に此事あり 山上に石を立て以て厥志を表す・・)
と風雪によって消されかけた文字が読めた。

明治8年は箱館戦争が終結してまだ6年足らずで、反政府の戦没者を慰霊することは
憚りがあったために、揮毫者や建立者の記載がどこにもないのは納得いくところである。
五稜郭政権の閣僚でただ一人戦死した土方歳三そして戊辰戦争の東軍戦死者800余人の慰霊の為の碑建立であり、榎本武揚は、
「碧血碑ハ、数ノ戦死者アル中ニテ、尤モ土方君ニ重キヲ置キ、・・・土方君ノ為ニ建テタ者ト云ッテモ、差支エナシ」と語っている。

さて、一本木関門で銃弾に倒れた土方歳三は何処に葬られたのか、
・ 明治12年に碧血碑の中に改葬
・ 碧血碑の後ろの大石の下
・ 碧血碑周辺の地面の下  
その他諸説があるようだが定かではないとある。
碑の台座部分の観音開きの扉の中には、それらしきものは納められていないそうだ。

しかしもし、この周辺に埋葬されその事実を榎本武揚が知っていたとすれば、この場所が選定された事に、なにかの関わりがあるのではないかとの思いに周囲を見回し、
芽吹き始めた木々の間からの陽の光が、土の中の命を呼び起こし、白いイチゲの小花や紫のエゾエンゴサクを咲かせ、静寂が心に残り、この場所をあとにした。

参考文献 好川之範著 「箱館戦争全史」

ちょっと木陰で・・2009/05/10 16:11

暑くなりましたネ~
今日は、暑くなりましたネ・・・

木陰でひと休み・・・・・

腰を少し曲げるこの座り方は私の癖なので失礼します。